2022年1月2日日曜日

「人と共にいることを望まれる神」

ゼカリヤ書 8:1‐6

彼らは喜びの地を荒廃に帰させた
 新年の最初の聖書朗読として与えられているのは、預言者ゼカリヤを通して語られた主の御言葉です。 預言者ゼカリヤが活動したのは、紀元前6世紀、エルサレムにおいて神殿の再建が進められていた時代でした。

 神殿の「再建」と申しましたのは、かつての神殿は破壊されてしまったからです。遡ること約70年、かつて繁栄を極めたユダの王国はバビロニアによって滅ぼされ、その時に神殿も破壊されました。人々は散らされ、主だった人々は異国の地へと捕らえ移されることとなりました。この章の直前には次のように書かれています。「わたしは彼らを、彼らの知らなかったあらゆる国に散らした。その後に、地は荒れ果て、行き来する者もなくなった。彼らは喜びの地を荒廃に帰させた」(7:14)。

 何故そのようなことになってしまったのでしょうか。少し遡って7章を見ておきましょう。かつて主が預言者たちを遣わして繰り返し語られた言葉が、9節と10節に要約されています。「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない」(7:9-10)。

 このような言葉が語られなくてはならなかったのは、実際にはそうなっていなかったからです。正義と真理に基づいてではなく、偏見と利害関係に基づいて裁きは行われている。人々は互いに自分のことしか考えず、他者のことには無関心になり、互いに自分の権利の主張ばかりを繰り返している。やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者たちなど、権利を自分で守り得ない力ない者たちは隅に追いやられ、抑圧され、力ある者の食い物にされている。皆、互いに災いを心にたくらみながら生きている。それがイスラエルの民の現実だったのです。

 そのような彼らに、神は預言者を送り、語り続けられたのです。しかし、彼らは耳を傾けようとはしませんでした。「ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった」(11‐12節)と語られている通りです。

 ここで一つ一つの悪い行いが責められているのではないことに注意してください。問題はそれ以前のことなのです。神に対してかたくなであり、神の言葉に耳を傾けようとしない生き方そのものです。かたくなに背を向けて耳を塞いで生きようとするその石のような心こそが問題なのです。

 そのようなかたくなさに対して、神は正しく彼らを裁かれました。ユダの国は滅び、人々は散らされました。地は荒れ果て、行き来する者もいなくなりました。しかし、ここで「神の怒りがエルサレムを荒廃させたのだ」と語られてはいないことに注意してください。「《彼らは》喜びの地を荒廃に帰させた」(14節)と聖書は語るのです。神が彼らに与えたのは、本来喜びの地であったはずでした。それが荒廃することは、本来の神の意図ではありません。それをもたらしたのは、本質的には神でもバビロニアの大軍でもないのです。彼ら自身なのです。神は喜びの地の上に人を生かそうとしておられます。しかし、神に逆らう人間のかたくなさが、与えられている喜びの地を荒廃させてしまうのです。

わたしはシオンに熱情を注ぐ
 しかし、神は荒廃をもって終わりにしてしまわれません。神は荒廃をもたらした人間の過去と惨めな現在だけを見ておられるのではありません。神は彼らの未来を見ておられるのです。神は散らされたイスラエルの民を再び呼び集め、こう言われるのです。「わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ」。

 ここは、以前用いていました聖書協会訳では次のようになっていました。「わたしはシオンのために、大いなるねたみを起こし、またこれがために、大いなる憤りをもってねたむ」。新共同訳で「熱情」と訳されているのは、他の訳では「ねたみ」となっているのです。「ねたむ神」という表現は非常に強烈です。しかし、このような表現は聖書の中に珍しくはないのです。

 神はねたむ神です。そこに表現されているのは、神の民を完全に自分のものにしようとされる神の熱意です。ねたむ神である主は、神の民が完全に神のものとして生きることを求められます。ねたむ神である主は、神の民が他に向くことを許されません。神の民が、背を向けることを許されません。神の言葉に耳を塞いでしまうことを許されません。神の愛に背く人間の罪を憎まれます。罪に対して憤られるのです。

 神はねたむ神であるということ、それは私たちにとって、本当はこの上なく喜ばしいことなのです。それは言い換えるならば、神は人間に対して無関心ではあり得ないということだからです。それはやがてそのシオンにおいて、ひとりの御方を通して現される神の熱情に他なりません。イエス・キリストによって、その十字架において、罪に対する神の憤り、そして人を求めてやまない神の熱情は完全に現されることになるのです。

神による回復
 そのように熱情を注ぎ給う主は、さらに「わたしは再びシオンに来て、エルサレムの真ん中に住まう」と言われます。主は、人々のただ中に住まおうとされるのです。神は自ら人と共にいて、人と共に生きることを望まれます。主はエルサレムの真ん中に住まうと言われます。

 しかし、主が住み得るところとなるために、都は一度破壊されなくてはなりませんでした。ソロモンの神殿は一度破壊されなくてはなりませんでした。神に背を向けたままの繁栄は、一度奪い去られねばなりませんでした。そうして一度荒れ果ててしまった都に対して、主はそこに住まう、と言われるのです。主が来られる時、荒れた都は回復されるのです。

 主が来られ、共に住まわれる時、回復された都とはどのようなものとなるのでしょうか。4節以下には次のように書かれています。「万軍の主はこう言われる。エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座するようになる、それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく」(4‐5節)。

 これが、神の回復しようとしておられる都の姿です。私たちはここに、神が人間に与えようとしておられる世界がどのようなものであるかを示す、一つの映像を与えられているのです。それは回復された都の広場の映像です。

 主が来られて共に住まわれる時――ここではかつてソロモンの時代のような繁栄と栄華が回復されるとは語られていません。主が語られたのは、主御自身が回復された平和の内に、長寿のゆえに杖を手にして座している老爺、老婆の姿でした。

 年老いた人々が広場に安心して座っている。そこに見えてくるのは、人が安心して存在することのできる世界です。もはや何にも脅かされることはない。先行きの不安、死の恐れに脅かされることもない。何かが出来なくなったからと言って、誰からも疎んじられることもない。何かが出来なくなったからと言って、自分で自分を疎んじることもないし、自分の存在意義を見失うこともない。主が来られて共に住んでくださる時、人は自らが生きていることそのものを肯定することができる。生きていることそのものを喜べる。そのような世界を、主は平和の内に広場に座る老爺、老婆の姿をもって私たちに示しておられるのです。

 そして、その同じ広場にはわらべとおとめがいます。子どもたちが溢れています。回復された平和の広場には、彼らが笑いさざめく声が満ちているのです。主が来られて共に住まわれる時、そこでは子どもが子どもとして生きることができる。子どもたちは安心して笑い戯れることができるのです。そこには彼らを害する大人たちはいません。疎外されることも虐待されることもありません。彼らを待っている未来に脅かされることもありません。主が来られ、主が共に住まわれるところにおいて、子どもたちは喜びをもって現在を生き、未来に向かって生きることができるのです。

 主の御目はそのような神の都の広場を既に見ています。そうなると主は言われるのです。しかし、これを語ったゼカリヤの目には、そのような広場はまだ見えていません。彼の目の前に広がるのは、いまだ人間の罪とその結果によって荒れ果ててしまったエルサレムでしかなかったことでしょうから。

 それは私たちにおいても同じです。私たちの目の前に広がっているのは、やはり同じように荒れ果てた世界です。それは本質的にはコロナがもたらした荒廃でも、異常気象がもたらした荒廃でもありません。神に耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くしてきた、私たち人間の罪が作り出してきた荒廃です。私たちの目には、人が幼い時も、年老いた時も、本当に喜びをもって共に生きることのできる世界は見えてきません。この世界は、笑いさざめく声ではなくて、生きることよりも死ぬことを求める嘆きの声に満ちています。それがゼカリヤの見ていた世界であり私たちが見ている世界です。

 しかし、預言者はそれでもなお言葉をついでこう語るのです。「万軍の主はこう言われる。そのときになって、この民の残りの者が見て驚くことを、わたしも見て驚くであろうかと、万軍の主は言われる」(6節)。面白い表現です。私たちにとって驚きであることも、神にとっては驚きではない。すなわち、神は私たちの想像を超えることを成し遂げることができるということです。神が来られて共に住まわれるとはそういうことだ、と。

 私たちの希望は、人間の持っている可能性にではなく、ただこのように語られる神にこそあるのです。私たちの希望は、その熱情をもって私たちのただ中に来て共に住んでくださる神にこそあるのです。それゆえ、私たちにとって一番大事なことは、神の民として、神のものとして、神と共に生きることなのです。そして、望みを失わず、主が与えようとしておられる世界を私たちもまた求めて生きるのです。「御国が来ますように。御心が天になるごとく、地にもなりますように」と祈りながら。
(祈り)

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