2022年1月5日水曜日

祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 2:1~5

 コロサイの信徒への手紙 2:1-5

 「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい」(1節)。

 パウロの一生は労苦の連続でした。他者の為の労苦によって費やされた人生でした。ここで、パウロはまだ一度も会ったことのない人々の為に労苦して闘っていると言います。パウロは実に、愛するということが労苦することであることを良く知っていた人であり、またそのように生きた人でありました。

 では、パウロは今まで具体的に、どのような労苦してきたのでしょうか。この箇所の直前にはこう書かれています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(1:28‐29)。

 このように、その第一は宣教の労苦であり、第二は牧会の労苦であることが分かります。「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように」労苦してきたのです。「完全な者」とは「大人」を意味する言葉です。キリストを信じ、キリストによって救われ、キリストによって新しく生まれた者が、さらにキリストとの結びつきの中で成長し、大人の信仰者になることです。パウロの労苦はそのための労苦でした。

 実際、コロサイの信徒たちはまだ霊的な幼子でした。ですから、異端的な思想が入り込んできたときに対処できなかったのです。彼らの弱さはパウロの苦しみでした。ですからパウロは具体的に、「あなたがたとラオディキアの人々のために…」と語ります。あなた方のために労苦しているということを知ってほしい、と言うのです。ある意味で押しつけがましい言葉とも言えます。しかし、コロサイの教会の人々には必要な言葉でした。なぜなら、彼らの教会は、信仰の危機に瀕していたからです。ですから、パウロはこの手紙が書かれている時もなお、彼らがキリストにある大人になれるように、キリストに対する固い信仰を持つことが出来るように苦闘していたのです。

 ところでパウロの労苦とは、この手紙が書かれている時点では、具体的にどのようなものだったのでしょうか。パウロはこの時、牢獄に監禁されていたのです。ですから「すべての人を諭し、教えています」とは言っているものの、実際にはコロサイの教会に赴くということはできなかったのです。パウロが教えるために採れる手段は、せいぜいこうして手紙を書くことぐらいでした。ある意味で手も足も出ない状況だったのです。

 そこで明らかなことは、パウロの苦闘とは、この時点において、具体的にはこのように手紙を書くことと祈ることだったということです。祈りにおける苦闘です。実際、パウロはこの手紙にこう記しています。「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り」(1:3)、「こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています」(1:9)。これが獄中にあっても為しうるパウロの愛の労苦でした。

 私たちは投獄されてはいないにせよ、同じように手の伸ばし得ない問題、手が届かない問題、もはや何も為しえない事柄はあるのでしょう。どうしますか。諦めてしまいますか。いいえ、いかなる状況においても為しえる愛の労苦があるのです。苦しみもがきながらでも祈ることです。

 さて、私たちはパウロの労苦して闘っている姿を見てきました。パウロはこのことを知ってほしい、と言うのです。しかし、この闘いは決してただ悲壮感に満ちたものではありません。私たちは5節において次のような言葉を見て改めて驚きを覚えます。「わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます」(2:5)。

 パウロの霊がコロサイの教会と共にあるということは、もちろん、霊が体を離れて飛んでいったということではありません。しかし、パウロは確かに物理的には訪れることのできないコロサイの教会と関わっているのです。まさに彼らと共にいるのです。それが祈りのリアリティなのです。

 しかし、それにしても、「喜んでいる」とはどういうことでしょうか。喜べるような状態であるならば、危機感を覚えつつこのような手紙を書く必要もないのです。パウロは何を喜んでいるのでしょうか。「あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます」と言うのです。これも奇妙な話です。コロサイの教会に正しい秩序が崩れ始めているからこそ手紙を書いているのです。キリストに対する固い信仰があって、異端思想などによってびくともしないならば、この手紙を書くこともなかったのです。

 実は、ここに私たちの学ぶべきもう一つの大切な事柄があるのです。祈るとはどういうことか、ということです。パウロは既に見ているのです。彼らがキリストに対する固い信仰によってしっかりと立っている姿を見ているのです。見て喜んでいるのです。どのようにしてでしょうか。信仰の目によってです。

 パウロは2節に記されているように、コロサイやラオディキアの信徒たちが心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るように、そのために苦闘していました。パウロの苦闘の祈りの一部は、1章9節以下にも記されています。パウロはそのように、彼らがキリストに対する信仰によって固く立つことを祈り求めてきたのです。本気で祈り求めてきたのです。そして、本気で祈り求めた者だけが見ることの出来る信仰の世界があるということを私たちは知らなくてはなりません。

 パウロは祈り求めたことは既に与えられたとの確信がありました。これはイエス様ご自身も言われたことです。イエス様は言われました。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)。パウロはこの信仰の目をもってコロサイの教会を見ていたのです。信仰の目によって、既に変えられたコロサイの教会の姿を見て喜びに溢れていたのです。

 私たちは何を見ているのでしょう。目に見える現実だけをあきらめの気持ちをもって見ているのでしょうか。それとも信仰によって来たるべき神の御業を見ているのでしょうか。私たちもまた信仰の目によって現実を越えた姿を見、喜ぶことが出来るまで祈らなくてはなりません。祈るとはそういうことです。神の力ある働きが現わされた現実を先取りして、それを信仰の目をもってしっかりと見ることが出来るまで、祈りの苦闘を続けなくてはならないのです。そうあるならば、祈りの苦闘は同時に大きな喜びでもあり得るのです。

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