コロサイの信徒への手紙 2:6‐15
今日は特に6節、7節に注目したいと思います。8節以下は次回もう一度お読みいたします。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」(6‐7節)。
パウロはこの手紙において実にしばしば「神に対する感謝」ということについて書き記しています。既に見てきましたように、この手紙の本文は父なる神に対するパウロの感謝から書き始められていました(1:3)。また、コロサイの人々もまた父なる神に感謝するようにと祈っています(1:12)。さらに3章15節では、いつも感謝しているようにと勧めています。3章17節では父である神に感謝しなさい、と書いています。そして、4章2節では感謝を込めて祈るべきことを記しています。
パウロは本日お読みしました2章7節においても「あふれるばかりに感謝しなさい」と書き記します。それは単独の命令文として書かれているのではありません。これは「感謝に溢れて」という言葉であって、6節の「キリストに結ばれて歩みなさい」という勧めの説明として書かれているのです。つまり「感謝に溢れて」いるということと「キリストに結ばれて歩んでいる」ということは切り離せない関係にあるのです。「感謝に溢れて」いないとするならば、「キリストに結ばれて歩んでいる」か否かを省みる必要があるのです。これは信仰の問題なのです。
実際、私たちから溢れているのは感謝でしょうか。それとも何か他のものでしょうか。教会では賛美歌を歌います。神様を誉めたたえます。神様を誉めたたえるのは神様に対する私たちの感謝の表現でもあります。このように、私たちの口からは感謝と賛美が溢れるのですが、日々の生活においては私たちから何が溢れているのでしょうか。神への感謝でしょうか。現状に対する不満でしょうか。神に対するつぶやきでしょうか。
不平や不満が心から、また口から溢れてくるのには、もちろん外的な理由があるはずです。理由なくしてブツブツつぶやくことはないでしょう。かつてイスラエルの人々が荒れ野で不平を口にした時、そこには水や食料がないという外的な理由がありました。そして、水や食料がないことが解決されなくてはならない問題だと思っていのでしょう。しかし、そうではないのです。悪いものが満ち、悪いものが溢れてくるとするならば、外的な要因が問題ではないのです。そうではなく、それは信仰の問題なのです。
「キリストに結ばれて歩んでいる」ということを考える時には、その前提に触れないわけにはいきません。6節をご覧下さい。パウロは次のように記しています。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから…」。このようにパウロがここで語っている事柄全ての大前提は、コロサイの信徒たちが「主キリスト・イエスを受け入れた(受け取った)」ということです。
キリスト者とは、キリストを受け入れた(受け取った)人を言います。キリストを受け取ることができたのは、もちろん神がキリストを与えてくださったからです。まず神のアクションがあるのです。神が私たち全ての者のために救い主キリストを用意してくださったのです。それは私たちがキリストを受け入れて救われるためでした。神はキリストを世に遣わされ、キリストは私たちの罪のために十字架で死なれました。私たちの罪が赦され、救われ、神と共に生きることができるために必要な全てのことは、キリストが成し遂げてくださったのです。
そのキリストをコロサイの人たちに伝えたのはエパフラスでした。彼らはキリストを遣わされた神の愛の使信を聞きました。コロサイの人々が聞いたのはエパフラスの言葉でした。しかし、神はエパフラスの言葉を通して、コロサイの人々にキリストを与えようとしておられたのです。そして、彼らはキリストをその恵みと共に受け取りました。そうです、神の福音が語られるところにおいて、その福音の言葉を通して、神はキリストを私たちに与えようとしておられるのです。
この頌栄教会においても、福音が語られ、キリストの救いが差し出されているのです。いかなる罪人も、キリストを信じ、受け入れるとき、その罪は赦され、神と共に生きるものとなるのです。神がキリストを与え、人間がキリストを受け取る。それは聖霊の働きによって実現する信仰のリアリティなのです。そのように「主キリスト・イエスを受け入れる(受け取る)」こと以外に、キリスト者としての信仰生活の入口はありません。そして、それこそがまた感謝に溢れた生活の根拠なのです。
このように、コロサイの信徒たちは確かにキリストを受け入れた人々でした。然るべき入口を通って信仰生活に入ったのです。その信仰生活を具体的に進めることをパウロは「キリストに結ばれて歩みなさい」と表現しているのです。キリストを受け入れたなら、キリストに結ばれて《歩む》のです。キリストを《受け入れる》ということは一つのことであり、そのキリストに結ばれて《歩む》ということはもう一つの別なことなのです。「歩む」という言葉は「生活」を意味します。ただ礼拝に集まる時だけではなく、礼拝から礼拝へと向かう日常生活の話なのです。
そこでキリストに結ばれて歩むということについて、その後に説明がなされています。「根を下ろす」「造り上げられる(建て上げられる)」という二つの言葉が用いられています。これは比喩です。キリストに結ばれて歩むとは植物が大地に根を下ろすように、キリストに根をしっかり下ろすことです。そして、キリストを土台として建物のようにその上に建て上げられることなのです。
私たちは植物のように深く根を下ろさなくてはなりません。そうでなければ倒れてしまいます。もっとも植物ならば、根は自然に大地の深いところへ向かうでしょう。根はちゃんと向かうべきところを知っています。ところが人間はそうはいきません。あっちに延び、こっちに延びしているうちに、いつの間にか根が宙を舞っているようなことが起こります。少しも大地であるキリストの中に入っていないならば、すぐに倒れてしまいます。向かうべき先を明確にしなくてはなりません。信仰生活の中心的関心事はキリストに向けられなくてはなりません。長い信仰生活をしていても、少しもキリストに根が延びていないなら、それはまことに悲しむべきことです。そしてまた、私たちはしっかりとした土台の上に建て上げられなくてはなりません。キリストこそ私たちの存在そのものを支えることのできる土台です。私たちは自らの生活の土台、教会の土台をどこに求めているでしょうか。
これらが意味するところは、結局、「教えられた通りの信仰をしっかり守る」と言い換えることができます。次回に触れたいと思いますが、8節以下にはコロサイの教会に入り込んでいた異端的な教えについての警告が記されています。彼らはキリストの福音以外のものに絶えず関心を奪われ、振り回されていたのです。だから、ここで「教えられた通りの信仰をしっかり守る」べきことについて書かれているのです。
私たちから溢れているのは何なのでしょう。パウロは感謝に溢れるべき十分な理由があるのだし、また事実、感謝に溢れて生きることが出来るのだということを示します。それはキリストを受け入れた者として、キリストに結ばれて歩むことなのです。
(祈り)