使徒言行録 19:11-20
今日の箇所は次のような言葉から始まっていました。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」(11‐12節)。
なるほど確かに「目覚ましい奇跡」の話です。病気のいやしは人々の注目を集めます。実際に、その「目覚ましい奇跡」に注目した人々の話が続きます。ユダヤ人の祈祷師たちです。彼らの中に、パウロの行っている不思議なことを見て真似をする人々がいたというのです。一例として祭司長スケワの七人の息子たちのことが取り上げられています。
そのように病気のいやしや悪霊払いは人の目を引くものです。しかし、今日の朗読はそれだけで終わりません。私たちが本当に注目しなくてはならないことを、聖書は非常に印象的な言葉をもって、次のように伝えているのです。「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」(18‐19節)。
魔術を手放した人々
魔術を行っていた人々がその書物を焼き捨てるということは、もはや今後一切魔術を行うことはないということです。そこに描かれているのは決定的な生活の変化です。確かに病気のいやしも目覚ましい奇跡と言うことができますが、エフェソにおいて起こった本当に驚くべき奇跡は、人々の生活の変化だったのです。
焼き捨てられた書物は「銀貨五万枚にもなった」と書かれています。銀貨一枚は当時の労働者の平均的な日当です。銀貨五万枚は今日の五億円ほどに相当するでしょう。それは書物の量が膨大だったということもあるでしょうが、またそれらの書物はいずれも高価なものだったということでもあります。彼らが魔術に関わることによって、それだけのお金をつぎ込んできたということです。
それだけのお金をつぎ込むほどに、魔術は彼らにとって魅力的なものでした。それだけ生活の大きな部分を占めていたものでした。いわば魔術は彼らの生活を支配していたと言えます。しかし、彼らはそれを手放したのです。誰から強制されたわけでもありません。自発的に手放したのです。しかも惜しみながら、心を痛めながらではありません。「焼き捨てた」という表現は、むしろ忌むべきものとして手放したということを意味します。もはや必要ではないというだけでなく、手に絡みついた蛇を振り払うかのように、自らそれらを火の中に投げ込んだのです。
そこに起こっているのは、明らかに外からの強制ではなく、内的な変化です。内的な変化による生活の変化です。だいたい強制によって何かを手放しても、嫌々ながら生活を変えたとしても、内なるものが変わっていなかったら、やがては元の木阿弥になるのでしょう。エフェソの人々に起こったのは、そのようなことではなかったのです。彼らは内側が変えられることによって、自ら進んで魔術を手放すことになったのです。
魔術に支配された生活
さて、そもそも彼らが手放した「魔術」とは何でしょう。古来から様々な形を取って存在してきた魔術。その前に出てくるユダヤ人の祈祷師が行っていたことも同じカテゴリーに入ります。魔術的な行為の根底にあるのは、超自然的な力、神的な力を支配し、自由に用いたいという人間の欲求です。それゆえに、魔術的な行為の中心にはいつでも「自分」がいるのです。神秘的な事柄に関わっていながら、決して神は中心にはならない。中心にいるのは、何かを欲している自分、神の力を使ってでも欲求を満たしたい自分自身です。
そのように自らの欲求を満たすために、彼らはお金をつぎ込んだのです。そのようにして得たものは手放せなくなります。いや、つぎ込めばつぎ込むほど手放せないだけでなく、さらにもっと欲しくなる。そうやって抜け出ることができなくなります。魔術は超自然的な力を支配するために行うのでしょうが、実際には魔術によって人間の欲望が際限なくかき立てられて、魔術そのものに支配されることになります。そのように人間の欲望の満たしを求めて、その結果得た生活というものは、実際にはかきたてられた自分の欲望そのものに支配された、まことに不自由な生活となっていくのです。
あのスケワの息子たちを考えてみてください。彼らはパウロが特別なものを持っているのを見たのです。そのように人が持っているものを見るならば、自分もそれが欲しくなる。彼らは自分のものにしようと試みたのです。そして、あのスケワの息子たちは酷い目に遭いました。しかし、恐らくあのスケワの息子たちは酷い目にあっても、また別なところで同じようなことを繰り返すのです。それが欲望に支配された生活というものです。
そう考えます時に、あのスケワの息子たちにせよ、多くの魔術の本を抱えて生活していた他の人々にせよ、彼らは決して特殊な人々ではないことが分かります。魔術という手段が用いられていないだけで、また、魔術という手段によって欲望がかきたてられていないだけで、今日の社会においても行われていることは本質的に同じだからです。今日、魔術などを使わなくても、お金さえつぎ込めば、他の様々な手段を使って願っていることをいくらでも実現することはできるのでしょう。そして、願っているものを得ればさらに欲がかきたてられて、もっと欲しくなる。多くの魔術の本を抱えて生活していた人々の姿は、まさに今日の社会に生きる人間の姿そのものであろうと思うのです
御言葉によって
しかし、今日の聖書箇所は、そのような人たちに劇的な変化が起こったことを伝えているのです。彼らが魔術に支配された生活を自らの手で投げ捨てている姿を見るのです。誰から強制されたわけでもなく、惜しみながらではなく、むしろ忌み嫌うかのように手放しているのです。そうです、彼らは手放すことができたのです。
先に見たように、そこに見るのは内的な変化です。それは何によって起こったのでしょう。今日の朗読箇所は次のように締めくくられていました。「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」。そうです、彼らの生活を変え、そしてさらに力を増して広まっていたのは「主の言葉」なのです。
最初に見たように、今日の聖書箇所はパウロを通してなされた目覚ましい奇跡を伝える言葉から始まっていました。そして、スケワの息子たちはその奇跡にしか注目していませんでした。しかし、パウロは病気をいやすために活動していたわけではありません。エフェソにおいて彼が全精力を傾けて行っていたのは別なことでした。
その奇跡の描写の前にはこう書かれています。「パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた」(8‐9節)。
その講堂は、朝と夕に哲学が講じられてきた場所であったと思われます。その場所を昼間に借りることができました。昼の暑い時間帯には、学校に限らず公の活動は停止するので、講堂も空いていたからです。パウロは早朝をテント造りに費やし、人々が昼寝をしている昼間の暑い時間を宣教に当て、そこに全精力を注ぎました。人々もまた、決して好ましい時間帯ではなく、また良い環境とは言えないところにおいて、パウロの語ることに熱心に耳を傾けたのです。その結果どうなったでしょうか。次のように書かれています。「このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」(10節)。
「パウロは…論じていた」と書かれています。しかし、人々はただパウロの言葉を聞いていたのではありませんでした。パウロがこのことを二年間行った時に、精力的に論じるパウロ以上に働いておられたのは主御自身だったのです。人々は確かにパウロの宣教において「主の言葉」を聞いていたのです。「ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」と書かれているとおりです。
そのような二年間において起こったのが、人々の生活における具体的な変化でした。それは主の言葉によって起こりました。「主の言葉」ですから、それによって、彼らは主の御前に身を置くことになりました。「主の言葉」ですから、主の御前において自らの人生を問われることになりました。主の御言葉によって、人の目には隠されている自らの罪もまた明らかにされることになったのでしょう。主はすべてご存じですから。そして、主の御言葉によって、罪の赦しと、そのために独り子さえも世に与えられた神の愛を知ることになりました。彼らはその愛の支配のもとに、神と人とに仕える人生を受け取ったのです。そこにおいてもはや魔術は必要なくなりました。既に計り知れない神の恵みの内にあるのですから。そのように彼らが信仰によって受け入れた主の言葉こそが彼らの内に根源的な変化をもたらしたのです。
そして、エフェソの人々に与えられた恵みは、今日の私たちにも同じように与えられているのです。聖書の言葉にせよ、説教にせよ、それが単なる人間の言葉ならば、人間の言葉がなし得ること以上のことは起こらないでしょう。しかし、礼拝堂に身を置く時、あるいはそれぞれの場所で礼拝をささげ聖書を開く時、私たちが人間の言葉ではなく、主の御言葉を求めて御前に出ているならば、私たちは人間の言葉ではなく主の御言葉を聞くことになるのです。
そして、それが主の御言葉ならば、人間のなし得ることを超えた内的な変化を、主御自身がもたらしてくださる。主の御言葉によって、私たちは強制されてではなく、嫌々ながらでもなく、惜しみながらでもなく、私たちを支配し不自由にしているものを手放して火にくべる者とされていくのです。私たちの内なるものは単に私たち自らの意志と決断によって変えていくのではありません。私たちが何よりもまず求めなくてはならないのは、私たちを内から変えてくださる生ける主の御言葉なのです。
(祈り)