テモテへの手紙一 2:1-7
すべての人々のために祈りなさい
パウロは若き同労者であるテモテにこう書き送りました。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(1節)。
この手紙を受け取ったとき、テモテはエフェソの諸教会の牧会に当たっていたようです。この手紙を読みますと、その働きは困難を極めていたことが察せられます。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(5:23)ということまで書かれています。肉体的にも精神的にも相当に弱っていたのでしょう。パウロがこの手紙を書き送ったのは、何よりもそのような若き牧者を励まし、また助けとなる具体的な指示を与えるためでした。そこでパウロは個人的な事柄を述べた後、このように勧めるのです。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」
まずは祈ること。問題がどれほど多くても、困難がどれほど大きくても、対症療法的に動き回るのではなくて、まずは祈ること。しかも、それはただ直面している問題について、その解決を神に願い求めるということではなく、その祈りはすべての人々のために執り成すこと、感謝することをも含むのです。テモテはまずそのように祈らなくてはならないのです。いや、これはテモテだけではありません。8節以下には教会に対する指示が書かれていますから、ここで勧められているのは単にテモテ個人についてではなく、教会全体がそのように祈ることをも意味しているのでしょう。問題がどれほど多くても、困難がどれほど大きくても、教会の為すべきこと、それはまず、すべての人のために願い、祈り、執り成し、そして感謝することです。
もちろん、「すべての人々のために」と言いましても、文字どおりすべての人々のために個々に祈ることはできないでしょう。これは明らかに、いかなる人をも祈りから除外してはならない、という意味でもあるに違いありません。「こんな人のために祈れない。ましてや感謝などできるものか」と言ってはならないということです。その具体的な実例として、「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と書かれています。それは「王たちや高官のため」に祈ることが必ずしも自明のことではなく、むしろそのことに困難を覚えるような事情があったからでしょう。
それはある程度想像できることです。王たちや高官とは、具体的には皇帝や地方総督に代表されるローマの支配体制を指していると考えられます。この手紙が書かれた時点においてローマの国家権力による迫害や弾圧がどの程度起こっていたのかは定かではありません。しかし、少なくともパウロは現に囚われの身となっているのであり、カイザルの囚人となっているのです。さらに言うならば、教会を構成していた人々の多くは貧しい人たちであり、奴隷の身分の人たちも少なくありませんでした。たとえ国家による迫害ではなくても、この世の権力によって踏みにじられてきた人たちが教会にはいくらでもいたのです。そのような教会に対して、パウロはあえてこう語りかけるのです。「王たちやすべての高官のためにも、願いと祈りと執り成しと感謝とをささげなさい」と。
そしてまた、後の時代、ローマの国家権力による迫害が激しくなった時代になってもなお、この手紙は読まれ続けていたことを忘れてはなりません。まさに王たちや高官たちの命令によって捕らえられ、殺される危険があるときでさえ、その礼拝において「王たちやすべての高官のためにも、願いと祈りと執り成しと感謝とをささげなさい」という言葉が朗読されたということです。そして、実際に祈られたのでしょう。その時、彼らは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)というイエスの言葉をも思い起こしたに違いありません。その意味でパウロがここで言っている「すべての人々のために」という言葉は、実に重い言葉であり、そのような言葉として私たちもまた受け止めなくてはならないのだと思います。
神は唯一、仲介者もひとり
そのようにパウロは、まず第一に、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と勧めます。それはなぜなのか。理由がその後に書かれています。まず書かれているのは、特に「王たちやすべての高官のために」と語ったことについての理由です。「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです」(2‐3節)。
先にも申しましたように、教会には、既存の社会において踏みにじられてきた人たちが少なくありませんでした。もしそのような人々が、宗教的熱狂主義や原理主義に陥ってしまったならどうなるでしょう。神の名のもとに反社会的な行動や破壊的な行動を取ることが、信仰に熱心であることだと取り違えるかもしれません。だからこそ、パウロはあえて「王たちやすべての高官のためにも祈りなさい」と言うのです。神はそのような熱心さを喜ばれない。神が望んでいるのは「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」ことだと言うのです。
しかし、パウロが「すべての人々のために」祈ることを勧めるのには、もっと大きな理由があります。パウロは言います。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(4節)。これこそが、ただ王たちや高官のためだけでなく、「すべての人々のため」に祈る理由です。
先に触れましたように、心情的には「王たちや高官のために」祈ることが困難なことはいくらでもあったに違いありません。王たちや高官でなくとも、「あんな人のために祈れるか」と思ってしまうことは、私たちにおいてもあるかもしれません。しかし、「あんな人のために祈れるか」と私たちが言うとき、神は言われるのです。「わたしはその人が救われて真理を知るようになることを望んでいるのだ」と。
そこでパウロは、恐らく当時の教会において繰り返し唱えられていたであろう信仰の言葉を引用するのです。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです」(5‐6節)。
なぜ「すべての人々」なのか。第一に、「神は唯一」だからです。神が唯一だということは、すべての人間がこの神との関わっているということを意味します。「神は唯一」であるならば、神はキリスト者だけの神ではありません。すべての人の神なのです。そのすべての人が救われることを神は望んでおられるのです。もちろん、そこでもなお、人間の側が神の救いを受け入れるか拒否するかという問題は残ります。しかし、神がすべての人が救われることを望んでおられることを私たちが常に心に留めていることは大事なことです。神が閉め出しておられないのに、私たちが閉め出してはならないのです。
そして、なぜ「すべての人々」なのか。第二に、「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとり」だからです。仲介者が一人ということは、すべての人がこの御方によって仲介されなくてはならない、ということです。だから、神はすべての人が真理なるキリストを知ることを望んでおられるのです。それこそが教会の宣教の根拠です。教会がキリストを宣べ伝えるのは私たちがそうしたいという以前に、神がそのことを望んでおられるからなのです。
ところで「神と人との間の仲介者」について語られるということは、人は神に直接的には近づくことができないということをも意味します。これが聖書の語る極めて重要な認識です。それは、古くはモーセの幕屋の構造に、後にはエルサレムの神殿の構造によく表わされています。聖所の奥にはもう一つの部屋がある。これが至聖所です。そして、その間は垂れ幕によって隔てられているのです。この垂れ幕は、罪深い人間が神に近づくことはできないことを象徴しているのです。
人間が作った自分のための偶像ならば、人はいくらでも自由に近づくことができます。こちらに罪があろうがなかろうが関係ありません。しかし、神がまことの神であり生ける聖なる神であるならば、罪ある人間は近づくことができない。アダムとエバがしたように、神の顔を避けて園の木の間に隠れざるを得ないのです。
それゆえに、人間が神に近づくためには仲介者が必要なのです。そして、イエス・キリストが仲介者となってくださったのです。パウロはあえて「人であるキリスト・イエス」と書きました。この御方が「人である」ということが決定的に重要な意味を持っているからです。イエス様は、いわば人間の代表として、神の裁きを受けてくださったのです。「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」(6節)と書かれているのはそういうことです。あの十字架の上でイエス様が死んだとき、いったい何が起こったと書かれていますか。あの神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと書かれているのです(マルコ15:38)。もはや神と人との間の隔てがなくなったのです。罪が贖われたからです。
偉大な教師、宗教的な指導者は歴史の中にいくらでもいます。しかし、すべての人の贖いとして御自身を献げてくださった「神と人との間の仲介者」はただおひとりです。イエス・キリストが御自身を献げてくださったこと、それは神の意志を世に示す決定的な証しでした。十字架にかけられたキリストは、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」という神の心を証ししているのです。
さて、冒頭において触れましたように、確かにテモテは多くの問題を抱えていました。私たちもそうなのでしょう。この世界にも、教会にも、日々頭を抱えざるを得ない現実があるのでしょう。しかし、そのような諸問題にだけ目を向け、その解決だけを求めていてはならないのです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。」その神の望んでおられることにこそ私たちの思いを向けるべきなのです。「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」。そうです、そうする時に、目の前の問題についてもふさわしい関わり方が見えてくるに違いありません。
(祈り)