ローマの信徒への手紙 9:14‐29
神に不義があるのか
「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない」(14節)。本日の第2朗読は、そのような言葉から始まっていました。
「神に不義があるのか」という問いは、明らかに「神に不義がある」と思う人がいることを想定して語られています。では、どうして「神に不義がある」と思うのでしょう。その直前には、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉があります。これを読みますと「ああ、なるほど、それに対して『神に不義がある』という言葉が出て来るのだな」と思うかもしれません。実際、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」いう言葉につまずく人はいるだろうと思います。神ならばすべての人を平等に愛するべきだと思っている人は、このような言葉を聞けば「そんな神は正しくない。神に不義がある」と思うでしょう。
しかし、それはあくまでも今日の私たちの感覚なのです。当時のユダヤ人は「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というこの言葉につまずくことはないのです。むしろ「それは当然でしょう」と思うのです。というのも、ヤコブはユダヤ人の祖先であり、エサウというのはエドム人の祖先と考えられていたからです。そして、エドム人は長い間イスラエルに敵対してきた民族なのです。ユダヤ人にとっては、神が「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と語るのは極めて当然のことなのです。
ではなぜ「神に不義がある」という言葉が出て来るのでしょうか。それはこの言葉の引用の仕方に対してなのです。パウロはこれを神の「自由な選び」の例証として引用しているのです。つまりその直前の11節以下に書かれているように、ヤコブが選ばれたのは「人の行いによらず」、ヤコブとエサウの善悪によるのでもないのだ、とパウロは言っているのです。正しいから選ばれたのでも、何か優れた点があるから選ばれたのでもない。ただ神が「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」ということなのだ、と。
ユダヤ人ならばこのことにはつまずきます。それはユダヤ人にとっては大問題なのです。なぜなら、彼らは、自分たちに優れた点があるから選ばれたと思っているからです。それがいわゆる選民思想です。アブラハムの子孫として生まれ、割礼を受け、律法を守って生活していることが、選びと救いの根拠であると思っているのです。そのような自分たちと、無割礼の者たち、律法を守らない輩、異教の人々、豚を食う連中と一緒にされたくないのです。神が義なる神であるなら、選ばれるにふさわしい人を選び、救われるにふさわしい者を救うのでなくてはならない。もしそうでないならば、神は正しい神とは言えない。不義であるということになる。――「神に不義があるのか」というのは、そのような文脈において語られている言葉なのです。
かたくなにされる神
しかし、そのような「神に不義があるのか」という言葉に対して、パウロは「決してそうではない」と一蹴するのです。そして、人間の側の義を持ち出して、神を不義とする人間の傲慢さに対し、聖書を引用しながらここから徹底的に神の主権について語り始めるのです。
神はモーセに何と言ったか。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」。これは出エジプト記33章19節の引用です。「憐れみを受けるにふさわしい者を憐れむ」とは言っていないのです。そして、さらにパウロは、あえて神の主権を強調する言葉を引用します。同じ出エジプト記からの引用です。神はファラオにこう語られました。「わたしがあなたがたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」(17節)。これは出エジプト記9章16節の引用です。
その前後の物語を思い起こしてください。神はモーセを通して、奴隷であるイスラエルの民をエジプトから去らせるよう、ファラオに告げられました。しかし、それに対してファラオはこう答えたのです。「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか」(出エジプト記5:2)。ここからファラオと主なる神との戦いが始まります。
彼は主なる神の支配に逆らいます。心をますますかたくなにして、神の支配に逆らい続けるのです。しかし、それは無益な戦いでした。たとえエジプトの王であっても人間は決して神と対等ではないからです。聖書は、神に逆らって戦っているファラオが、その時点で既に完全に神の支配下にあったことを教えているのです。神に逆らうファラオの心が益々かたくなになって行ったのは、神がその心をかたくなにされたのだ、と。そのこと自体が既に神に逆らう者に対する神の裁きなのです。神はまさにファラオの心をかたくなにすることによって、神の主権を明らかにされるのです。
かたくなな心をもって神に逆らい続けたファラオは最終的に破れます。そして、奴隷の民イスラエルは救われます。ファラオが破れることによって神の主権が現され、奴隷の民が救われることによって、これが完全に神の憐れみによることが現されたのでした。パウロが引用しているように、すべては主の名が全世界に告げ知らされるためでした。そして、パウロはこう続けるのです。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」(18節)。
神に口答えするとは、あなたは何者か
皆さん、これを読んでどう思われましたでしょうか。この18節の言葉は、ある種の反応を引き起こすであろうことをパウロは知っています。だからこう続けるのです。「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と」(19節)。神の絶対的な主権ということが語られるところでは、必ずこのような反応が起こるものです。
「なぜ、神はなおも人を責められるのだろうか」という言葉は、責められる点の全くない人の口からは出てこない言葉です。しかし、実際にはそんな人はいないのでしょう。神の御前に出るならば責められて然るべき点が必ずある。しかし、そこでなお人は神の絶対的主権を盾に取って自分を正当化することができるのです。わたしがかたくななのは、神がかたくなにしたのでしょう。私が悪いのも神がこのような私にしたのでしょう。誰が神の御心に逆らうことができようか。それでもなお、神がわたしを責めるとするなら、それはおかしいではないか、と。
それに対して、パウロはあくまでも神の絶対的主権についての議論を押し進めます。彼は言うのです。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」(20‐21節)。
パウロの議論はいささか乱暴なように思えなくもありません。しかし、神の絶対的な主権を主張するこのパウロの乱暴な論法によってこそ、まさに読者の内に隠れていた思いが表面に引き出されるのです。いかに常々神に言い逆らって、神に口答えして生きているか。いかに神の主権を受け入れようとせず、不遜な思い上がった心で生きているか。自分を義とし、神を不義とする傲慢な思いがいかに根強く私たちの内を支配していることか。神の主権に挑んだファラオは他人の姿ではありません。彼の姿は、神の前に身を低くしようとしない私たち人間の不遜な有様を映し出しているのです。
憐れみの器として
しかし、パウロはそのような私たちに対して、神がどのようなお方であるかを語り始めるのです。これまで見て来たように、パウロは絶対的主権者であられる神の権限を語りました。そのために焼き物師のたとえを用いました。これはイザヤ書にもエレミヤ書にも用いられている、ユダヤ人にとっては馴染み深いたとえです。しかし、パウロはそこで、焼き物師を超えた方について語り始めるのです。絶対的な権限を持ちながらも、なおも憐れみ深く関わってくださる御方なのだと語り始めるのです。
「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう」(22‐23節)。
神は怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたのだ、とパウロは言うのです。怒りの器として滅びることになっていた者たち――ユダヤ人たちにとって、それは異邦人に他なりませんでした。彼らこそ、怒りを受けて滅びるに相応しい者たちであると思っていたのです。しかし、実際にはそうではなかったのです。不遜にも神を不義とし、何にも支配されない自由なる神の主権を認めず、ファラオのように神に挑戦し、神に言い逆らって来たのは、選民を自認していたユダヤ人たちにだったのです。そして、それはユダヤ人だけではありません。ここにいる私たちもまた同じです。自分を正しい者とし、他人を裁き、神をさえ裁いていた私たちこそ、まさに神の怒りを受けて滅びるべき「怒りの器」であったのです。
焼き物師でしたら、そのような器はすぐにでも叩き壊してしまうでしょう。しかし、神はそうなさいませんでした。そのような怒りの器を耐え忍ばれたのでした。23節に書かれている「憐れみの器」と、22節の「怒りの器」とを、全く別の二者として考えてはなりません。本来滅びるはずであった者が憐れみを受けたから、「憐れみの器」と呼ばれているのです。神はただ憐れみによって、そのような者たちに栄光を与えようと備えられたAのです。
パウロもまた、自分自身が滅びることになっていた「怒りの器」であったことを否定できなかったに違いありません。ですから、異邦人たちと共に「憐れみの器」として召し出されていることを、感動をもって語っているのです。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」(24節)。
さて、私たちはどのように生きていくのでしょう。自らを正しい者として他者を断罪し、神に対してさえ「神に不義がある」と言いながら生きていくのでしょうか。あるいは、本来ならば滅びるはずの「怒りの器」が「憐れみの器」とされて生かされていることに、感謝と喜びをもって生きていくのでしょうか。
(祈り)
2021年7月18日日曜日
「神の怒りと憐れみ」
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