ルカ7:11‐17
私たちには身近でない話
あるやもめのひとり息子が亡くなりました。棺が町から運び出されます。嘆き悲しむ母親に大勢の町の人が寄り添いながら進みます。墓へと向かう長い葬列が続きます。本日、朗読されましたのは、そのような物語です。
ここに書かれているのは、ある意味では私たちにとても身近な話です。この箇所を読みますと、これまで私が司式をしましたいくつもの葬儀のことが思い起こされます。礼拝堂から棺が運び出される様子が思い起こされます。あるいはまた、私自身の身内の葬儀が思い起こされます。親しい友人の葬儀を思い出します。皆さんの中にも、ご家族を亡くして、あるいは親しかった友人を亡くして、涙を流しながら棺を運び出したその場面を思い出しながら、今日の聖書朗読を聴いた人が少なくなかったに違いありません。ここに書かれているのは、ある程度長く生きているならば、必ず身近に経験することになる、そのような場面です。
さて、「私たちにとても身近な話」と申しましたが、もう一面において、この聖書箇所が伝えているのは、私たちにとって全く《身近ではない話》とも言えます。私たちの経験とは明らかに異なるのです。私たちが棺を運び出した時、向こうからイエス様は来てくださいませんでした。イエス様が来て、亡くなった人を生き返らせてはくださいませんでした。棺の中の人は生き返らなかった。棺はそのまま火葬場へと運ばれて行きました。ですから、「今日の箇所に書かれている話は、明らかに私たちの経験してきたことと違う!」と、そう言いたくなるかもしれません。
しかし、考えて見ますと、この箇所を読んでそう思うのは、何も私たちが最初ではないはずなのです。この福音書が書かれた頃の教会も同じだったに違いないのです。迫害の中の教会はどうだったのでしょう。指導者が捕らわれていきました。父親が、母親が捕らえられていきました。そして、殺されてしまいました。死体となって帰ってきました。ボロボロにされて血を流しているその遺体をイエス様が生き返らせてくださったという話を、私は聞いたことがありません。そうではなくて、皆、嘆きながら、涙を流しながら、精一杯ていねいに埋葬したのです。
皆さん、そのような教会が、そのような人々が、それでもなおこの話を伝えてきたのです。イエス様が死者を生き返らせたという話を、大切に伝えてきたのです。こんなの嘘っぱちだ!などとは言わなかったのです。この物語から福音を聴いてきたのです。希望と慰めを聴いてきたのです。それはいったいどういうことなのか。それを御一緒に考えながら、御言葉に耳を傾けたいと思うのです。
主は憐れに思い
もう一度13節を御覧ください。そこにはこう書かれています。「主はこの母親を見て、憐れに思い――」。イエス様はこの母親を見て憐れに思ったというのです。「憐れに思う」という言葉は、「内臓・はらわた」という言葉に由来します。はらわたが引きちぎられるような思いを表現していると言えます。日本語としては「胸が張り裂ける」という表現が近いかもしれません。
その母親は文字通り、胸が張り裂けんばかりの悲しみを覚えていたに違いありません。しかし、その痛みと悲しみを感じていたのは、彼女ひとりではなかった。そこに同じように、はらわたが引きちぎられるような、胸が張り裂けるような思いを抱いている方がおられたのです。そのように彼女の痛みを自らの痛みとして感じていた方がそこにおられたのです。「主はこの母親を見て、憐れに思い」とはそういうことです。
この母親はやもめであったと書かれています。どのくらい前のことであるかは分かりませんが、彼女は涙を流しながら、同じように夫の棺を町から運び出したのでしょう。その彼女にひとり息子がいました。ひとり息子だけが頼りだったのだと思います。しかし、よりによって、そのひとり息子が亡くなってしまいました。どうして、よりによってやもめがひとり息子まで失わなくてはならなかったのでしょう。どうしてこの人は、そのような悲しみを味わわなくてはならなかったのでしょう。――分かりません。説明がつきません。少なくとも私には説明ができない。
いや、説明をしようとする人は世の中にいくらでもいるだろうと思います。当時には、何か不幸があると因果応報で説明しようとする人はいくらでもいたのです。しかし聖書は、なぜこのやもめがひとり息子を失ったのか、説明してはくれません。イエス様もそこで彼女に、そんな話は一言もしてはいません。イエス様はただ、一緒に悲しんだのです。一緒に心を痛めたのです。一緒に苦しんだのです。皆さん、私たちはこのイエス様の姿に、何を見ているのでしょう。――私たちはそこに、他ならぬ神の心を見ているのです。
この不幸な母親だけではありません。私たちは毎日のように、「なぜこんなことが起こるのか。なぜこの人がこんな不幸に遭うのか」と思わざるを得ないことを見聞きしています。時に自分自身にもそのようなことが降りかかります。その時、ある人は「神などいない」と思い、ある人は神を呪うこともあるでしょう。
しかし、神がイエス・キリストを遣わされた時、神はキリストによって自らの弁明をしようとしたのではないのです。なぜ不幸があるのか、説明しようとしたわけでもないのです。あなたがたの罪が不幸を招いているのだ、と言って人間の罪を責めるためにキリストを送られたのでもないのです。不幸になりたくなければ悔い改めろ、と迫るためにキリストを送られたのでもないのです。そうではなくて、神様がどんな思いでこの世界を見、私たち一人ひとりを見ておられるかを、キリストを通して表されたのです。
先ほどはルカによる福音書の7章をお読みしたのですが、実は、この「憐れに思い」という言葉は、良く知られているキリストのたとえ話にも出てきます。放蕩息子のたとえです。家を出て、父を離れていった息子が、飢饉の中で飢えて疲れてボロボロになって帰ってきた。その息子を父親が遠くから見つけるのです。そこにはこう書かれています。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15:20)。――父親は息子を見つけて憐れに思った。
父親はその息子に「なんでこんな目に遭ったか分かるか?お前が悪いんだぞ」などと、一言も説教じみたことを言いませんでした。父親はただ息子を見て《憐れに思った》のです。どんなに苦しんできたか、辛かったか、そのことを思って胸も張り裂けんばかりの痛みを覚えたのです。そして、「それが神様なのだ」と主は言われるのです。そして、そう言われるだけでなく、自らその神の思いをもって人を御覧になられたのです。神の心をもって人に関わられたのです。イエス様の言葉だけでなく、イエス様の姿そのものが天の父の心の現れだったのです。イエス様はその母親を憐れに思った。そうです、神様はその母親を憐れんでおられた。
もう泣かなくともよい
そして、神がそのように憐れに思ってくださるならば、そこには希望があるのです。そのことを、主は身をもって示してくださいました。主は言われます。「もう泣かなくともよい」。母親を見て憐れに思った主の言葉です。慰めの言葉です。しかし、神が憐れに思っていてくださるのならば、それは単なる慰めの言葉で終わらないのです。そこで止まらないのです。その先に向かうのです。「泣かなくともよい」と言われるだけでなく、現実に涙を完全にぬぐい取ってしまうところまで止まらないのです。
物語はこのように続きます。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」。涙はぬぐい取られました。もう泣く必要はなくなりました。
実際に何が起こったのか。その息子は単に仮死状態だっただけなのか。そんなことを詮索しても意味がありません。重要なのは、この出来事が一つのしるしとなった、ということです。神が憐れんでくださるとはどういうことなのかを指し示す、一つのしるしとして記憶され、そして私たちに伝えられているということです。そして、神の憐れみを誰も途中で止められないという事実は、やがてキリストにおいて完全に現されることになるのです。
この時、イエス様はナインの町におられました。しかし、そこは旅の終点ではありませんでした。イエス様は最終的にエルサレムに向かっておられたのです。罪の贖いが成就するための十字架へと向かっておられたのです。イエス様は知っておられたのです。神の憐れみは止まらない。独り子を罪の贖いの犠牲にしてでもすべての人に罪の赦しを与えるところまで止まらない。そして、さらに十字架の先には復活があるのです。神の憐れみは、死の力を打ち砕き、陰府の扉をたたき壊すところまで止まらないのです。罪と死に捕らえられている人間を完全に救うところまで止まらないのです。
そして、誰もキリストが十字架にかかることを止めることはできませんでした。誰もキリストの復活を止めることはできませんでした。そうです、誰も神の憐れみを途中で止めることはできないのです。その意味で、ナインの町で起こったことは、一つのしるしとなりました。絶対に誰も止めることのできない神の憐れみを指し示すしるし。そして、それゆえにキリストにおいて完全に現される神の救いを指し示すしるしとなりました。
あの母親に対して現された神の憐れみ、そしてキリストの十字架と復活において現された神の憐れみが、私たちにも向けられています。これからも、私たちの人生には様々な痛みや苦しみがあることでしょう。この世界には終わりの日に至るまで苦しみが無くなることはないでしょう。なぜこんなことがあるのか。なぜこんなことが私に起こるのか。その問いに対して、神様は弁明することも、説明することもしてはくださらないかもしれません。最後まで納得できないことは残るに違いない。しかし、今日の聖書箇所を通して、私たちは知らされているのです。神はそんな私たちと共に苦しんでいてくださる。私と共に悲しんでいてくださる。私の心が張り裂けそうになっているとき、神の心も張り裂けんばかりに苦悩していてくださる。私たちの苦しみは神にとって決して他人事じゃない。神はそのように私たちを憐れんでいてくださるのです。
神が憐れんでいてくださる。そのことさえ知っていれば十分なのです。それでもう大丈夫なのです。神の憐れみは、私たちを完全に救うまで止まらないからです。私たちは、多くのことについて取り返しがつかないと思って涙を流してきたんでしょう。自分のしたこと、為しえなかったことについて、時には激しく自分を責めながら、涙を流してきたのでしょう。しかし、神の憐れみは、私たちの罪を完全に赦し、すべてを回復し、すべてを新しくし、私たちの目から涙を完全にぬぐい取ってくださるまで止まらないのです。誰も神の憐れみを途中で止めることはできないのです。
神の憐れみが行き着くところを、聖書は次のように記しています。今日、もう一箇所お読みしたところです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21:4)。
冒頭において、この話は私たちの経験とは異なる、全く身近ではない話であると申しました。しかし、最終的にはやはり「私たちにとても身近な話」ということになるのでしょう。なぜなら、私たちにも、あの母親と同じように、神の憐れみが向けられているのですから。