2019年12月15日日曜日

「見よ、その日が来る」

マラキ書3:19‐24

神に仕えることはむなしい
 「見よ、その日が来る」と語られていました。今日の朗読はこの言葉から始まります。「見よ、その日が来る」。――来るべき「その日」とはいったいいかなる「日」なのでしょう。今日は19節からお読みしましたが、「その日」を知るために、少し遡ってみることにします。

 13節以下には次のような神の言葉が記されています。「あなたたちは、わたしに/ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う/どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え/神を試みても罰を免れているからだ』」(13‐15節)。

 「神に仕えることはむなしい」。それが神の耳にしていた人々の言葉でした。「神に仕える」とは、神を礼拝することであり、また神礼拝を基として神を畏れ敬い、神の御心に従って生活することです。しかし、「そんなことをしてもむなしい」と彼らは言うのです。そして、そのような言葉が彼らの口に上るのには、それなりの背景があったのです。

 先々週の礼拝においてイザヤ書が読まれた時、バビロン捕囚という出来事について触れました。紀元前六世紀、バビロニアの軍事侵攻により、ユダ王国が滅亡しました。エルサレムは破壊され、神殿も焼き払われてしまいました。国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。これがバビロン捕囚と呼ばれる出来事です。

 その後、時代はバビロニアの支配からペルシアの支配へと移り変わりました。ペルシアの王キュロスは支配下にある諸民族の宗教と文化を保護する政策を採りました。そのため捕囚の民に対しても、エルサレムに帰還し、神殿を再建することを許可したのです。これは「キュロスの勅令」と呼ばれます。帰還民たちが神殿の再建に取り組んでいく姿は、旧約聖書のエズラ記に記されております。途中長い中断の時期がありましたが、ついに神殿が完成しました。それはキュロスの勅令から20年を経た時でした。

 神殿の再建には多くの労苦が伴いました。しかし、そこには同時に大きな期待もまた伴っていたのです。神殿が再建されるならば、かつてのダビデ・ソロモンの時代のように、エルサレムは再び繁栄を見ることになる。そう彼らは信じていたのです。そのような期待のもとに、神殿で礼拝は行われるようになりました。また律法の遵守を重んじるコミュニティも形作られていきました。

 そして、数十年の時を経ました。現実には神殿の再建後、数十年を経てなおイスラエルの民を取り巻く環境は何一つ変わってはいませんでした。彼らは依然としてペルシアの支配のもとにある弱小民族の一つに過ぎませんでした。しかも、干ばつと凶作が続き、いなごによる大被害も起こり、繁栄するどころか、人々の生活はますます貧しく苦しくなっていきました。神殿再建当時の熱狂的な興奮はもはや跡形もなく消え去っていました。残っていたのは苦しい生活の中における深い失望と神への不信だけでした。

 マラキ書の冒頭には、そのような当時の人々の思いがよく現れています。「わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と」(1:2)。これがマラキ書の背景なのです。「神よ、あなたは私たちを愛していると言うけれども、いったいどのように愛を示してくださったと言うのですか」――そんな人々の思いです。

 神の愛を疑い始めるならば、この世の不条理と理不尽ばかりが目に付きます。そもそも道理に合わないことばかりではないか。悪事を行っても栄える者たちがいる。神を侮り試みたとしても、何の罰を受けない人々がいる。いや、それがごく当たり前に見られるのがこの世界の現実ではないか。

 確かにそうなのでしょう。彼らの言っていることは間違ってはいません。この世界は因果応報で説明はつきません。戒めの遵守と神の報いという単純な因果も成り立たちません。少なくとも現実にはそう見えるのです。ですから神の愛を疑い始めるならば、「神に仕えることはむなしい」という言葉に行き着かざるを得ないのでしょう。私たちの言葉で表現するならば「礼拝することなんてやめてしまおう。信仰生活なんてやめてしまおう」ということです。

義の太陽が昇る
 しかし、そのように人々が「神に仕えることはむなしい」と語る中で、そこに少数ではあるけれども、「神に仕えることはむなしい」とは言わない人たちがいたのです。別の言葉を語り合う人々がいたのです。それが16に語られていることです。「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された」(16節)。

 彼らは神の愛を疑わない人々です。彼らは「主を畏れ敬う者たち」と呼ばれています。また、「その御名を思う者」とも呼ばれています。「御名を思う」とは「御名を尊ぶ」という意味です。そのように、どこまでも神を尊び、神への信頼をもって生きようとする人々です。見えるところによらず信仰によって生きようとする人々です。そして、あくまでも神への畏れをもって互いに語り合うのです。「神に仕えることはむなしい」とは語らない。

 そこで、主は言われるのです。「わたしが備えている日に、彼らはわたしにとって宝となると万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」(17節)。すなわち、神の愛を信じたことはむなしく終わらない、ということです。神を畏れ敬って生きたことは決して無駄にならない。そのことが明らかになる日が来ると主は言われるのです。

 さて、本日の第一朗読において「見よ、その日が来る」と語られていました。「その日」とは、そのように神の愛を疑わなかったこと、神を信頼して最後まで畏れ敬って生きたことがすべて報われる「その日」のことなのです。神が備えておられる「その日」のことなのです。

 「その日」が19節以下においては、「炉のように燃える日」として語られます。そのイメージは、パレスチナの人々にとって馴染みの深い生活の一場面から取られています。刈り取られたわらが束ねられます。そのわらの山が焼け付くような日差しによって乾燥します。そして、さらに「炉のように燃える日」において、焼け付く日差しが照りつけるとどうなるか。自然発火を起こすのです。乾燥した空気の中で燃え出したわらは何も残さず灰になるのです。

 そこに子牛が暗い牛舎から出され、解き放たれます。子牛は太陽の光を喜び、躍り出て跳び回ります。このように、わらを燃やす焼け付く日差しが、もう一方でいやしをもたらす光として子牛を照らすのです。これが「その日」において起こることだと主は言われるのです。

 その日差しは「義の太陽」と表現されています。義の太陽がやがて昇る。それは神の正しさが完全に現わされる時が来ることを意味します。「義の太陽」は、神に逆らい「神に仕えることはむなしい」と言っていた人々にとっては焼き尽くす太陽となるのでしょう。「高慢な者を幸いと呼ぼう」と言っていた高慢な者たちにとって、「義の太陽」は焼き尽くす日差し以外の何ものでもないでしょう。

 しかし、主を畏れ、主を待ち望んでいた人にとって、義の太陽はいやす翼となるのです。それまで暗い牛舎の中にいるように、この世の不条理を耐え忍んできた人々、ひたすら神の愛を信じて耐え忍んで生きてきた人々は、やがて義の太陽の光のもとにいやされて、子牛のように躍り出て跳び回るのです。

破滅をもって、この地を撃つことがないように
 さて、ここで私たちは、マラキ書の最初の言葉を再び思い起こす必要があります。「わたしはあなたたちを愛してきたと主は言われる。」そう書かれていました――ならば、この主が望んでおられることは、人々が終わりの日に燃えるわらのようになってしまうことであるはずがありません。マラキ書の最初において表明された主の御心は、この書の最後まで貫かれているのです。

 それゆえに、最後に至って、一つの約束の言葉が与えられるのです。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」(23‐24節)。

 「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」。これが何を意味するのかは定かではありません。それゆえ、この言葉についてはありとあらゆる解釈が存在します。しかし、それが何を意味するにせよ、これが悔い改めを表現していることは間違いないでしょう。「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。そのためにエリヤが遣わされるのですから。

 実は語順からいいますと旧約聖書の最後の言葉は、この「破滅(ヘーレム)」という言葉なのです。しかし、「破滅をもってこの地を撃つ」という断罪の言葉として語られているのではありません。そうではなく、破滅をもって終わらないように、という神の願いが言い表されているのです。「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。旧約聖書は、この神の願いをもって終わるのです。

 さて、そのために「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」というマラキ書の約束はどうなったのでしょう。後の日に洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、人々に悔い改めを宣べ伝え、バプテスマを授けていた時、ある人たちが彼に尋ねました。「あなたはエリヤですか」。それに対するヨハネの答えは「違う」でした。ヨハネの自覚としては、彼はエリヤの再来ではなかったのです。彼は言いました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハネ1:23)。今日の福音書朗読です。

 しかし、荒れ野で叫ぶ声として彼の行っていたことは、まさにマラキ書に記されていた神の願いの現れに他なりませんでした。その意味で彼は神の遣わされたエリヤであったとも言えるのです。ですからイエス・キリスト御自身は、洗礼者ヨハネについてこう言われたのです。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい」(マタイ11:14-15)。

 このようにして、「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」と願われた神は、先駆者としてエリヤを遣わされ、そして救い主として御子イエスを遣わされました。そのようにして、「その日」が来る前に、立ち帰る者が神の赦しにあずかり、神と共に歩む道が備えられることとなったのです。それゆえに、私たちにも、「その日」が来る前に、今、その恵みにあずかってここにいるのです。

(祈り)

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