2025年5月25日日曜日

「あなたの父に祈りなさい」

2025年5月25日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 6:1-8

奥まった部屋に入りなさい
 今日の福音書朗読において、イエス様はこのように言っておられます。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(5節)。

 ユダヤ人の社会には、決まった時間にお祈りをするという習慣がありました。その時、彼らは、立って、両手を挙げて祈りました。そして、ユダヤ人にとって、この祈りの立ち姿は敬虔さの証しでもあったのです。ですから、祈りの時間にちょうど人が集まっている会堂にいること、あるいは大通りの角にいることを好む人もおりました。それは、自分が敬虔なユダヤ教徒であることを人々に示す絶好の機会だったからです。

 しかし、そのような人々をイエス様は「偽善者」と呼びました。もっとも「偽善者」というのは意訳です。もともとは「役者」を意味する言葉です。役者は人々に見せるために舞台に立ち、人々の拍手によって報われます。敬虔さを示すために祈るなら、賞賛された時点で目的は達せられたことになります。だからイエス様は言われるのです。「彼らは既に報いを受けている」と。

 しかし、それでは本当の意味で祈りにはなりません。ゆえに主は言われます。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(6節)。

 もちろん、イエス様はこの言葉をもって、「共に祈ること」を否定しているわけではありません。この後に教えられています「主の祈り」においても、私たちは「天にまします《われらの》父よ」と祈るように教えられているのです。それは共に祈ることを前提とした祈りです。

 しかし、ここではあえて「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と主は言われます。つまり「隠れなさい」ということです。ここで大事なことは何でしょう。「人の目から自由になること」です。実は、この話はそもそも次のような言葉から始まっていたのです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(1節)。

 人の目ばかりを気にして、人の言葉と評価に振り回されて生きることは、実に不自由なことです。それは私たちもある程度経験して知っています。特に、イエス様が生きていたのはユダヤ人の戒律の世界ですから、なおさらだったと言えます。それは監視社会です。互いに戒律を守っているかを監視している社会です。そこで人は他の人を厳しい目で見ることになります。すると、今度は自分がどう見られているかが気になります。だから外側だけを一生懸命に繕うようになります。「見てもらおうとして」何かを行うようになります。

 それは私たちの社会生活においてもある程度起こっていることなので、私たちにも分かることです。しかし、信仰生活において本当に大事な部分というのは、人の目からは隠されているところにあるのでしょう。人の目ばかりを気にして、「見てもらおうとして」、外側ばかりを取り繕うことに意識を奪われてしまったら、本来の信仰生活が成り立たなくなってしまいます。

 だからこそ、「人の目から自由になる時間」が必要なのです。そのために主は「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われたのです。これは当時どの家にもあった貯蔵室のことです。窓のない小部屋です。まさに奥まった隠れた部屋――そこに入るのです。窓がないから人目から全く隔絶されることになります。そこに隠れるのです。

 そのように私たちには人の目から自由になる時間が必要なのです。そのように奥まった場所に身を置く時間が必要なのです。

あなたの父に祈りなさい

 そのように主は、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われました。そして、こう続けます。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。

 この「隠れたところ」がまず意味するのは、祈る者が隠れて身を置いた密室です。私たちがそのように「隠れたところ」に入ると、「隠れたところにおられるあなたの父」がそこにおられるのだ、というのです。人々の目から解き放たれ、人々の求めからも身を引き離して、隠れたところに一人で入ると、そこには先に待っていてくださる「あなたの父」がいるのです。19世紀から20世紀にかけて人々に大きな影響を与えたアンドリュー・マーレーという人は、その著作の中でこう勧めています。「御父は隠れたところにおられ、そこで私を待っておられます。心が冷えて祈れなくなっているからこそ、愛の御父の御前に出なさい。」

 そこにおいて「祈り」は、隠れたところにおける親子の対話となります。他の誰も入り込めない、親密な交わりがそこにあります。イエス様はここであえて「あなたの父」という言葉を使われました。イエス様が「あなたの父」と言うのは実は珍しいのです。ほとんどの場合「あなたがたの(天の)父」です。しかし、密室の祈りにおいて向き合うことになるのは「あなたの父」なのです。他の誰も入り込めない、父と子の交わりがそこにあるのです。

 そのように、イエス様は「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。そして、「隠れたところ」がもう一つ意味するのは、肉の目に隠されているということでもあります。隠れたところにおいて待っていてくださる父は、そこで祈る者に対しても身を隠しておられるのです。だから、祈る人には見えない。それゆえに、時として祈りは独り言のように感じられるかもしれません。

 しかし、こちらからは見えないのだけれど、そのお方は「隠れたことを見ておられるあなたの父」と言われているのです。ここで「隠れたこと」が意味しているのは、隠れたところにおける祈りです。こちらからは見えないけれど、見えない神の側からは見えているし、聞こえているのです。ならば本当はこちらから見えないことなど、どうでもよいことなのです。神は見ていてくださるし、聞いていてくださるからです。

 そして、さらに主はこう言われました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(6‐7節)。

 「くどくどと述べてはならない」とは、「長い祈りをしてはならない」ということではありません。イエス様がある時には夜を徹して祈られたことを福音書は伝えています(ルカ6:12)。では何が問題なのでしょう。「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」ということです。まるで神様は説得か交渉の相手のようです。そうなっては、もはやイエス様が言われる「あなたの父」ではありません。「あなたの父」については、その必要はないのだと主は言われるのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と。

すべてをご存じであるから

 しかし、願う前から必要なものをご存じであるならば、なぜ祈る必要があるのでしょう。願う前から知っているならば祈る必要はないではないですか。

 しかし、このイエス様の言葉は、祈ることが《何でないか》をはっきり示していると言えます。私たちは、神が知らないので教えてあげるのではありません。私たちにどれだけ必要かを認識していない神に、「必要なんだ」とアピールすることでもありません。それらは異邦人がしていることだと主は言われるのです。

 私たちは、本当に必要なことがなんであるかをご存じである方に祈るのです。むしろ本当に必要なことがなんであるかを知らないのは私たちの方なのです。

 それはこの世の親子を考えればある程度分かります。まともな大人である親ならば、幼子に何が必要なのか、少なくとも幼子よりは分かっているはずです。確かに親の方が分かっている。しかし、だからといって子供に「何も求めるな。わかっているんだから」とは言いません。むしろ幼子の求めに、より大きな知識をもって答えようとするものです。

 子供は子供なりに、必要と思えるものがあるのです。それは時として絶対に必要なのであり、それは泣き叫ぶほどのものなのです。そのように、私たちには、「私たちに絶対に必要と思えるもの」があるのです。時として、私たちもまた求めてもがいて泣き叫ぶのです。様々な必要は、時として私たちを苦しめ、焦らせ、悲しませます。しかし、そのような苦しみや焦りや悲しみを、私たちはどこにも持って行きようがないのではありません。それを安心して持っていくことができる父がおられるのです。なぜならその御方は、私たち以上に必要なものをご存じであるからです。

 その必要を、私たちは隠れたところにおいて、他のだれも介入できないところにおいて、神に打ち明けることができるのです。何も知らない人に一から説明するように祈る必要はありません。神は事の詳細をすでにご存じです。だから、必要と思えることだけを話すことができる。信頼して話すことができるのです。

 パウロは後にこう書いています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)

 そして、「隠れたところにおられるあなたの父は報いてくださる」とイエス様は言われるのです。その祈りは、隠れたところにおられる父に語られます。それはときとして壁に向かって語っているように、カーテンに向かって語っているように感じるかもしれません。しかし、そこには見ていてくださり、聞いていてくださる方がおられる。祈りは「報いられる」のです。

 そのような祈りの時間を、教会は昔から「密室の祈り」と呼んで大切にしてきました。後に私たちは「主の祈り」を祈ります。「天にまします我らの父よ」と。その父は、隠れたところで私たちたち一人ひとりと共に時を過ごそうと、私たちを待っていてくださいます。 


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