2024年6月30日日曜日

「御言葉を信じ、信じたように生きる」

ヨハネによる福音書 4:46-54

 今日の聖書箇所には、「王の役人」と呼ばれる人が登場します(46節)。領主ヘロデ・アンティパスに直接仕えていた有力な高官のようです。また、彼が経済的にも裕福であったことは、後に「僕たち」が彼を迎えに来ることからも分かります。

 そのような「王の役人」が、直線距離でも30キロは離れているカファルナウムからはるばるイエスのいるカナまで自ら旅をしてきたのです。しかも、ユダヤ人当局から危険視され始めていたイエスのもとに来て、見栄もプライドも、己の立場もかなぐり捨てて、すがりつくようにして助けを求めているのです。なぜでしょうか。彼の権力をもってしても、彼の持てる富をもってしても、どうすることもできないことによって、彼の人生が根底から揺さぶられていたからです。

 この「王の役人」の人生をそこまで揺るがしたのは、子供の病気というたった一つの出来事でした。その時、彼が持っているものは何一つ、彼を支えることはできなかったのです。実際、「王の役人」に限らず、人間がその人生の土台としているものは何ともろいものかと思います。たった一つの病、たった一つの失敗、たった一つの事件、いやそれどころか、誰かが偶然発したたった一言の言葉によってさえ、揺さぶられ、もろくも崩れていくということが起こります。

 しかし、人生の土台が大きく揺らいだ時に、救い主のもとに赴いたことは、彼にとって実に幸いなことでした。そこにおいて、神との出会いを経験することになったからです。「人間のピンチは神のチャンスである」と言われます。揺らいだ時こそ、揺るぎない御方に出会い、その御方を知るチャンスでもあるのです。

奇跡を見て信じた人々
 この出会いが起こった背景をまず見ておきましょう。今日の箇所の少し前を見ますと、「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた」(43節)と書かれています。イエス様はそれまでいたユダヤを去って、故郷のガリラヤへと向われたのです。しかし、奇妙なことに、その続きはこう書かれているのです。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」(44節)。

 翻訳では分からないのですが、実は、原文には「なぜなら」という言葉があるのです。それが理由だということです。つまりイエス様はそこでは御自分が敬われないであろうことを予期しながら、それだからこそ、あえて故郷に行かれた、ということなのです。

 それはなぜなのか。――イエス様が王の役人に語った言葉から見えてくることがあります。主は言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。このようなことが語られるということは、もう一方において、《しるしや不思議な業を見たから》信じた人が少なからずいたということを意味します。

 実は既に2章にこう書かれているのです。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(2:23)。多くの人がイエス様を信じたのです。それは喜ばしいことではないでしょうか。しかし、聖書はこう続けるのです。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それはすべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(同24‐25節)。

 イエス様のなさったしるし、不思議な業、奇跡を見て信じた人たちがいた。具体的には病気の癒しなどでしょう。しかし、奇跡を見て信じた人々の心の内に何があるかをイエス様はご存じだったというのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。すなわち、人々が求めているのは奇跡なのであって神ではないこと。奇跡を起こすイエスの力を求めているのであって、イエスを遣わされた父なる神を求めているわけではないし、キリストを通して語られる神の言葉を求めているわけでもないこと。主は人間の心の中にあることをご存じだったのです。

 ある人々は病気を癒すイエスの力を求めてきました。ある人々は彼らを政治的にローマの支配から解放してくれるイエスの力を求めてきました。後にイエスを王にしようとする人たちまで出てきます。ならば、彼らが求めているものが与えられなければ、どうなるのか。期待どおりにならなければ、やがては「十字架につけよ」と叫び出すことにもなるのです。主は人間の心の中にあることをご存じでした。

 だからこそ、そのような人間的な歓迎と熱狂が拡大することを望まれなかったのです。だからそのような人々を避けて、むしろ歓迎を期待できない故郷へと向かったのです。むしろ歓迎されないことの方がはるかに望ましかったということです。

 しかし、予想に反して、ガリラヤの人々はイエスを歓迎しました。なぜか。こう書かれています。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」(45節)。

 残念ながら、ここにも奇跡を見て信じた人々がたくさんいたのです。そして、イエス様のしるしと奇跡を期待して待っていたのです。これが本日の聖書箇所が記している場面であり、その背景です。そこにおいて、先ほど申し上げました宮廷の高官とイエス様との出会いが起こったのです。

御言葉を信じて帰って行った
 47節からお読みします。「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」(47‐48節)。

 この人は必死でした。しかし、イエス様のもとに来たその心の内にあったものは、基本的にはユダヤにおいて「奇跡を見て信じた」人々となんら変わるものではありませんでした。彼はイエス様が病気を癒してくださる方だということを聞いたのでしょう。だから、その癒しの力が必要だと思った。病気である彼の息子にその癒しの奇跡が必要だと思ったのです。

 確かに彼の息子には癒しが必要なのでしょう。息子のためには、イエスの癒しの力が必要なのでしょう。しかし、彼は重大なことを見落としています。それは、救いを必要としているのは息子ではなく、自分自身なのだ、という事実です。人生が根底から揺さぶられているのはこの父親自身なのです。たった一つの出来事で容易に崩れてしまうような人生の土台しか持っていないことを突きつけられているのは彼自身なのです。死という現実を目の前にした時に、死を越えた真の拠り所がないままに生きてきたのだという事実と直面しているのは、実は彼自身なのです。彼に本当に必要なのは、目の前の個々の問題の解決ではなくて、神御自身なのだということに彼は気づいていないのです。

 そう、この役人は気づいていません。だから、イエス様が「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と問題を指摘しても、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願うのです。彼はなおもイエスの持っている癒しの力を息子のために求めます。そのような父親にイエス様はこう言われたのでした。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。

 イエス様はその父親に「信じる」ということを求めました。イエス様の御言葉を信じることを求めたのです。御言葉を信じるということは、イエス様御自身を信じるということでもあります。それはイエス様を父なる神から遣わされた御方として信じることでもあります。それは遣わしてくださった父を信じることでもあります。そのように先の見えない現実について、それでもなお、神とキリストとその御言葉に全幅の信頼を置くことを求めたのです。

 そして、イエス様はただ信じることだけでなく、信じたように行動することを求めました。信じたのなら、そこから立ち上がって実際に一歩を踏み出さねばなりません。主は言われます。「帰りなさい」と。「あなたの息子は生きる」と言われる主を信じるなら、彼は立ち上がって、家路につかなくてはならないのです。すなわち、カファルナウムに向かって一歩を踏み出さなくてはならないのです。

 彼はどうしたでしょうか。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)と書かれています。そして、奇跡が起こりました。息子は癒されました。いや主が語られた時に、既に癒されていたのです。そうです、奇跡は起こります。しかし彼は、ただ必死で奇跡を求め、癒しをもたらす力を求めて、それを得たのではありません。信頼すべき御方とその御言葉に信頼して行動したときに、実際にそのように生きたときに、結果として彼は神の御業を見ることになったのです。

 だから、息子が癒されて、「ああ、よかった」で終わりませんでした。また、ただ次なる奇跡や癒しを求めるようになったのでもありませんでした。そうではなく、この出来事はまさに彼にとっても、また家族にとっても、本当の意味で「しるし」となったのです。

 「しるし」いうのは、それ自体が重要なのではなく、重要なことを指し示すものなのです。すなわち、神がイエス・キリストを遣わされたこと。神がイエス・キリストを通して語っておられること。神がイエス・キリストを通して御自分との信頼に満ちた交わりへと招いてくださっていること。イエス・キリストによって永遠の命を与えようとしておられること。――王の役人に起こった出来事は、まさに神の限りない愛と御救いを指し示す「しるし」となりました。それゆえに、このエピソードは次のように締めくくられているのです。「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」と。

 そして、この「しるし」が伝えられたのは、後の教会のためでもあり、ここにいる私たちのためでもあります。イエス様は私たちにも、御自身とその御言葉を信じるようにと、そして、信じた者として、信じたように生きることを求めておられるのです。




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