2023年4月30日日曜日

「自由をあえて放棄する自由」

コリントの信徒への手紙一 8:1-13

 誰から見ても善と見なされる事柄があり、誰から見ても悪と見なされる事柄があります。誰が見ても正しいことがあり、誰が見ても間違ったことがあります。そのような白黒はっきりしている事なら良いのです。実際は白黒はっきりしない灰色の事柄の方が圧倒的に多いと言えるでしょう。しかもやっかいなことに、ある人が見るとそれは白に見える。ある人が見るとそれは黒に見える。そして、その主張がぶつかり合うことになります。多くの争いはそのような灰色の事柄を巡って起こります。

正しさの主張
 今日第2朗読で読まれたのは、コリントの信徒への手紙です。コリントの教会にも、そのような争いがあったようです。それは「偶像に供えられた肉」を食べてよいか否かということを巡る争いです。あるいはさらに進んで、キリスト者はそもそも肉を食べて良いのか否かという争いです。これはいわば灰色のことです。しかし、ある人にとっては白、ある人にとっては黒と見えたようです。今日の私たちから見たら滑稽なことかもしれません。しかし、当時の教会においては大問題だったのです。食べ物の話は生活に直接関わっているからです。

 コリントの町には、数多くの神々の神殿がありました。そこにおいて捧げられた犠牲の動物の肉から、祭司の取り分がまず取り分けられます。そして、残った部分が払い下げられ、市場に売りに出されます。人々が口にする食肉の大部分がこのような経路を通して供給されていました。さらには当時の習慣として、神殿において、偶像に供えられた肉を食べることもあったのです。

 当然のことながら、キリスト者の中には、そのような「偶像に供えられた肉」を一切拒否する人たちがいました。また、ローマの信徒への手紙14章を見ますと、先にも触れましたように、偶像にささげられた肉だけでなく、そもそも肉そのものを一切食べるべきではないと主張する人たちがいたようです。それは、肉がいかなる経路を通って食卓に着いたか判別できない事情があったからです。それらの人たちにとっては、肉を食べることは明らかに「黒」でした。

 しかし、もう一方で、偶像に供えられた肉を食べることは、キリスト者にとってなんら差し支えないと考える人たちがおりました。1節に引用されているのは、そのような人たちの言葉です。彼らは言うのです。「我々は皆、知識を持っている」(1節)と。

 彼らが言うその「知識」とはどのようなものでしょうか。4節に具体的に記されています。「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(4節)。

 これは当時においても今日においてもキリスト者にとって正当な神理解です。もちろん、パウロ自身もそのような理解を持っています。だから「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」と言っているのです。

「唯一の神以外にいかなる神もいない」。すなわち、唯一の神以外はすべて被造物であり、神としての実体を持ってはいないのです。ならば、そこに供えられた肉は偶像の影響を受けることはないし、肉そのものに何の変化も生じるわけではないでしょう。偶像に供えられようがいまいが、肉はあくまでも肉なのです。偶像礼拝そのものは神の御心に反する罪であったとしても、そこにある肉そのものが変化するわけではありません。ならばその肉を食べることに何の問題があるでしょう。

 このように、「我々は皆、知識を持っている」という人々が、その知識に基づいて、偶像に供えられた肉を食べることには、ある正当性が伴っているのです。言い換えるなら、彼らには、信仰的な知識に基づいて、「偶像に捧げられた肉」を食べる「権利」もあれば「自由」もあるのです。彼らの主張は極めて正しいのです。

 しかし、問題は、「正しいことを主張しているだけでよいのか」ということにあります。当然の権利と自由を主張しているだけでよいのか。信仰者としてそれでよいのか。パウロはそのことを今日の箇所において問題にしているのです。

その兄弟のためにも
 そこで考えなくてはならないことは何か。必ずしも他の人は自分と同じ知識を持ってはいないということです。いや、知的な理解だけならば共有することは難しくありません。しかし、もっとやっかいなことがあります。必ずしも他の人は自分と同じように感じないということです。感じ方というのは、その人がこれまで生きてきた長い時間、その間に受けてきたものに裏打ちされていますので、必ずしも簡単には変わらないのです。

 パウロは7節において具体的な例を挙げています。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らない。肉を食べるとするならば、どうしても「これは偶像に供えられた肉なのだ」ということを考えながら、ある違和感を持ちながら食べざるを得ないのです。だからこそ、そのような人は肉を食べることを避けるわけです。その人にとっては、「偶像に供えられた肉を食べること」は、どうしても「黒」であると感じるのです。

 しかし、そのような人が「知識を持っている」人のいわゆる「正しい主張」に出会うとします。そして結局は「白」であると主張する人の言葉に動かされて、自分は「黒」であると感じているのに、実際には彼らと同じ行動を取るようになったらどうでしょう。偶像に供えられた肉を食べることは罪であると思いながらも、その肉を食べることになったらどうでしょう。その人は良心を痛めながら食べることになるでしょう。

 そうなりますと、もはや肉を食べることが悪いことか否かというレベルの話ではなくなります。その人は「神の前に正しくないと思っていることを、あえて神に逆らって行うこと」になるのです。そのようにして片方の正しい主張が、もう一方の人をつまずかせたり、神から引き離す力として働くことにもなるのです。ですからパウロは11節では、「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」とまで言うのです。それは起こり得ることです。

 しかし、そんなことを言われたら、「いや、それはその人の弱さの問題でしょう」と言いたくなるかもしれません。「その人がつまずいて、神様から離れて、最終的に滅びたとしても、それはその人の問題でしょう。私は間違ったことは言ってないし、それは受け止める側の問題ですよ。」――恐らく「知識を持っている」と主張する人たちは、そう言いたくもなるに違いないのです。

 しかし、そこでパウロは言うのです。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(11節)と。「知識を持っている」と主張し、自分たちは正しいことを語っていると自認している人たちが、本当に知らなくてはならなかったこと、考えなくてはならなかったことは、このことなのです。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」。

 私たちは往々にしてある事柄が「白」であるか「黒」であるかを問題にします。そのことで議論もし、争いもする。そして自分が正しいことを言っていれば、何の問題もないと思っているものです。しかし、そこでいつの間にか一番大切なことを忘れられているのです。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」ということです。パウロはこの一事を大切にしたいのです。また大切にして欲しいと願っているのです。このことを大切にしないことこそ、実は「キリストに対して罪を犯すこと」(12節)だと言うのです。

 確かに、パウロ自身も、自らの持っている知識からすれば、何の問題もなく肉を食べることができるのです。パウロは肉を食べる自由を主張することもできるのです。しかし、パウロはあえて「どっちでもいいではないか」と言うのです。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(8節)。要するに、「食べるか食べないかによって神との関係が決まるわけじゃない」と言い切るのです。彼はそのようにして「黒」だと感じる人、「黒」だと思う人をも大切にするのです。その人をつまずかせまいとするのです。

 だからパウロはそのためにあえて自分の自由を放棄することさえするのです。彼は言います。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)。ここで「わたしの兄弟」と呼んでいることが大事なのでしょう。肉を食べることを「黒」だと言う人も「わたしの兄弟」なのです。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」からです。


 今日の聖書箇所は次の言葉から始まりました。「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」(1節)。そう言って、パウロは彼らの知識そのものについて認めます。しかし、大事なのはその次なのです。「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(同)。いつでも私たちが考えていなくてはならないのは、わたしは今、「造り上げる」方向へと向かっているのか、それとも壊す方向へと向かっているのか、ということです。

 そして、「造り上げる」方向へと向かうために必要なのは、真に自由であることなのです。パウロが見せてくれている真の自由を持つことなのです。それは時として、「どっちでもいいではないか」と言える自由であり、自分の「正しい」知識に基づく、正当な「権利」や「自由」を、誰かのためにあえて放棄することさえできる自由なのです。

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