2024年5月1日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 15:22~16:8

 出エジプト記 15:22-16:8

 前回は「海の歌」として知られている部分をお読みしました。それは「神の偉大な御業をうたった歌」でした。それは具体的には神が敵を滅ぼされたこととして歌われています。その「敵」とは単にイスラエルの敵という意味ではありません。既にみてきたように、問題は神への敵対にあるのです。私たちが読んできたのは、かたくなに敵対し続ける者の話だったのです。そのように敵対する者を神が「わらのように焼き尽くす」(15:7)と言われるのです。エジプトと言えば、当時において他に並ぶもののない超大国なのですが、それでも「わらのように焼き尽くす」のです。神は「息をふきかけるだけ」で超大国の軍隊を滅ぼせる神なのです。

 その歌がどうして喜びの歌となり得るのか。彼らは神に敵対する者ではなく、「神のもの」とされた民の中にいるからです。その民の中にいるゆえに「主はわたしの神」と言うことができる。その幸いをこそ歌っているのがこの歌なのです。彼らが単に神の奇跡によって危機的状態を脱して、そのことを喜んでいる歌ではないのです。

 そのような賛美の歌が記されている直後に、今日お読みしたエピソードが出て来るのです。神のものとされている幸いを歌った直後に、その舌の根のかわかぬうちに、「民はモーセに向かって不平を言った」と書かれているのです。

 「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた」(15:22)と書かれていました。彼らは奇跡の余韻に酔いしれていることは許されませんでした。彼らが熱狂して賛美を捧げているその場所に神は彼らを留まらせませんでした。彼らは旅立たねばならない。どこに向かって?「シュルの荒れ野」です。

 私たちも教会で讃美を喜び歌います。しかし、そこに留まるわけではなく、現実の「荒れ野」の中に旅立たせられます。そこに送り出されるならば、それまで歌っていた賛美の内容を実際にそこで生きることができるかが問われるのでしょう。

 彼らは荒れ野において「贖われた民」として生きることが求められるのです。「この方こそわたしの神」として実際に生きることが重要なのです。しかし、どういうことが起こってくるか。荒れ野においては、「賛美は賛美。信仰は信仰。生活は生活」と分離することが起こってくる。「信仰は告白するけれど、現実はそうはいきませんよ」言い始めるようなことが起こってくる。ここにお読みしているのは、そのような私たちにも身近な現実を考えさせられる場面です。

 そこには「彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった」と書かれていました。これは水が尽きてしまったということを意味しているのではありません。水の蓄えなくして旅をすることはあり得ないからです。そうではなくて、期待していたところで水の補給ができなかったということなのです。無くなったわけではないが、水が少なくなってきている。すると「無くなったらどうしよう」と考え始めるのです。

 しかも、そこに期待はずれが起こります。マラというところに着いたら水があったのです。彼らは大喜びしたに違いありません。しかし、「そこの水は苦くて飲むことができなかった」というのです。そこで、ますます未来に向かって恐れがやってきます。民はモーセに対して言うのです。「何を飲んだらよいのか」と。何を飲んだらよいのか。蓄えている水を飲んだらよいのです。しかし、まだ水があるにもかかわらず、彼らはあたかも水が尽きてしまったかのように生きているのです。終わりであるかのように生きているのです。

 彼らはそこで思い起こすべきなのでしょう。前には海、後ろにはエジプト軍。絶対に「終わり」としか見えなかった時に、そこに道が開かれたこと、そして、神の約束があるかぎり決して「終わり」にはならなかったこと。そして、そのような神を「わたしの神」として賛美したこと。しかし、彼らが口にした賛美を、その信仰を、実際には生きていないのです。

 そのように民はモーセに不平を言いました。モーセはどうしたでしょう。モーセは祈った。すると主は一本の木を示され、そこで奇跡を起こされたのです。その木を水に投げ込むと、もはや苦くて飲めない水ではなくなっていました。

 民は恐らく狂喜したことでしょう。少なくなっていく水をふんだんに補給することができたのですから。しかし、その後を見ますと、次のように書かれています。「彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した」。実は、神は彼らの行く先には、なつめやしが青々と茂るオアシスを既に用意しておられたのです。だから、「一本の木」の奇跡は、本当は必要なかったとも言えます。神に信頼して、神の備えを信じて旅をしていればよかったのです。彼らが賛美した信仰を、そのまま生きていればよかっただけの話なのです。

 そして、16章に入ります。「イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった」(16:1)と書かれていました。彼らはエリムのオアシスに留まることは許されませんでした。雲の柱が移動したら、そこから再び荒れ野に歩み出さなくてはなりません。

 たしかに神は豊かに与えてくださいました。しかし、彼らは神が与えてくださったものに頼るのではなく、与えてくださった神に信頼して生きていくのです。神に信頼して、オアシスを後にして荒れ野に旅立つのです。

 さて、15章にも出てきましたが、16章に入って殊更に繰り返されているのは「不平」という言葉です。彼らの不平の言葉は3節に記されています。彼らはモーセとアロンに言うのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(16:3)。

 この言葉は、既に見てきたストーリーを踏まえた上で読まなくてはなりません。そうしますとき、これは驚くべき言葉であることが分かります。

 第一に、ここで不平を述べている人々は、出エジプトの出来事において神の救いの御業を経験した人々なのです。もともと彼らはエジプト人に仕える奴隷でした。彼らは苦しみの中から神に叫びました。「その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」(2:23)と書かれているとおりです。彼らが解放されたのは、神がこの叫びに耳を傾けられ、恵みによって行動を起こされたからでした。わずか一月ほど前に、彼らはその恵みを経験した人々なのです。

 第二に、ここで不平を述べている人々は、葦の海の奇跡において神の恵みを経験した人々なのです。先にも述べたように、背後からエジプト軍が追い迫ってきた時、彼らの前に広がっていた葦の海は、彼らの終わりを意味していたはずでした。しかし、神はその海の中に道を開かれたのです。終わりを突き抜けてなお先へと進み行く道を、絶望を突き抜けて先へと進み行く道を、神は彼らの前に開かれたのです。彼らは神の恵みによって開かれたその道を、確かに自分の足をもって歩いたはずでした。

 第三に、ここで不平を述べている人々は、かつて自らの口をもって、神の恵みを高らかに讃美した人々なのです。「主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる」(15:1‐2)。これが彼らの歌だったのです。

 第四に、ここで不平を述べている人々は、神によって泉のほとりに導かれ、この直前まで、泉のほとりに宿営していた人々なのです。神は雲の柱、火の柱によって、神は彼らを泉のほとりにまで導いて来てくださいました。そのように彼らはこの直前まで、ただ神の恵みによってその豊かさを経験していたはずでした。

 不平を述べているのは、そのような人々です。彼らは神を賛美していたその同じ口をもって不平を述べているのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と言っているのです。「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と。

 何という恩知らず。何という恥知らず。しかし、今日に至るまでの教会の歩みを思い、また私たち自身の生活を思います時に、ここに見るのと同じような姿を私たちは繰り返し見出すのではないかと思います。もしかしたら同じことが今日もまた起こるかも知れません。この祈祷会において、主の救いの御業をほめたたえ、主の泉のほとりに時を過ごしている私たちが、今日の午後に不平を言っているかもしれないのです。

 そのように、今日読みました箇所には、私たちにたいへん身近な「不平」という言葉が繰り返されている。そのような箇所です。しかし、繰り返されているのは「不平」という言葉だけではありません。同じように繰り返されている言葉があります。それは「主が聞かれた」という言葉です。これは恐るべき言葉です。彼らはモーセとアロンに対して不平を言っているのです。私たちが不平を言う時、私たちの視界には人間の姿しか入っていないかもしれません。しかし、モーセはこう言うのです。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」(8節)と。

 主はかつてイスラエルの民が助けを求める声を確かに聞かれました。イスラエルがエジプトを脱出することができたのは、確かに主が叫び求める祈りの声を聞いてくださったからでした。しかし同じ主は、民が不平を述べる声をも聞かれるのです。私たちは祈る時、主が聞く耳を持っておられることを前提にしています。ならば、私たちが不平を言っているときにも、主が同じように聞く耳を持っておられることを前提としていなくてはならないはずです。

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