2024年1月7日日曜日

「新たな力を得て、鷲のように翼を張って」

イザヤ書 40:25-31

 新年最初の主日礼拝の第一朗読において、私たちは次のような御言葉を与えられました。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(31節)。

待てなくなるとき
 ここに「望みをおく」という言葉が出てきますが、そのように訳されているのは「待つ」という意味の単語です。主を「待つ」のです。「待つ」ということは信仰生活の大事な要素です。私たちは諦めないで、望みを捨てないで、「待つ」ことのできる人になりたいものです。そのような人こそ、天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。

 しかし、このような預言者の言葉が伝えられているというのは、もう一方で「待つ」ということが時として非常に困難だからでしょう。確かに主に祈り続け、訴え続けてもなお事態が一向に変わらないとき、待つことが困難になるのです。

 時は紀元前6世紀、イスラエルの民がバビロニアにて捕囚となっていた時代です。既に捕囚生活が40年以上も続いていました。すぐにも祖国に帰還することができるという希望に燃えていた熱狂の炎もすっかり消えてしまいました。期待をもって未来を見つめる熱いまなざしはもはやそこにはありませんでした。もはや待ち望むべきものなど何もありませんでした。27節に引用されているのは、当時の人々の口に上っていた嘆きの言葉です。「わたしの道は主に隠されている」「わたしの裁きは神に忘れられた」。

 「わたしの道は主に隠されている」とは、わたしがどんな苦しく辛い道を歩んでいても、主は関心をもって見ていてはくれない、ということです。それは長く続く捕囚生活における実感だったのでしょう。天高いところに鎮座ましましてそっぽを向いている神。もしかしたら私たちもそのような神のイメージを思い描いてしまう時があるかもしれません。

 「わたしの裁きは神に忘れられた」も同じことです。「わたしの裁き」は他の訳では「わたしの訴え」「わたしの権利」などと訳されています。どんなに神様に訴えても、どんなに権利が侵害されていても、全く神様は関心をもってくださらない。まさに忘れ去られているとしか思えない。そのように感じる時がもしかしたら私たちにもあるかもしれません。

 そのように神への不信がつのり、待ち望むことができなくなってきますと、内側から弱ってくるのです。29節には「疲れた者」が出てきます。「勢いを失っている者」が出てきます。必ずしも病弱な人や年老いた人の話ではありません。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」ということが書かれています。

 「待つこと」ことができなくなる。未来に何の新しいことをも期待できなくなる。そのような時、年若い者さえも倦み、疲れ、つまずき倒れるようになります。それは私たちも良く知っていることです。本当の疲れは置かれている状況から来るのではありません。待つことができなくなった、その心の中から来るのです。

「なぜ」という神の問いかけ
 しかし、そのような者たちに対して、神が預言者を通して問いかけるのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。

 この「なぜ」という言葉は聖書に繰り返し出てきます。人間の言葉として、祈りの言葉として、「なぜですか」という人間の側からの神への問いかけとして出てくるのです。これは詩編の中の「嘆きの歌」と呼ばれるものに特徴的な言葉です。例えば、良く知られているのは詩編22編でしょう。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(22:2)という言葉から始まる詩編です。イエス様が十字架の上で口にされた詩編の言葉です。恐らく人々が口にしていた嘆きの言葉も完全な形に再現するならば、こうなるのでしょう。「神よ、なぜわたしの道はあなたに隠され、顧みられないのか」「神よ、なぜわたしの裁きは忘れられたのか」。

 そのように嘆きの中で「なぜですか」と問いかけることは私たちにもあると思いますけれど、それは大昔の信仰者たちも皆、経験してきたことなのです。私たちがそのような思いを抱いたとしても、それは何ら特別なことではないのです。そして、嘆きを嘆きとして口に出し、「なぜ」という問いを神に向けることは、時として大事なことなのです。

 しかし、私たちの側から神に向かって「なぜ」と問うだけで終わらせてはならないのです。嘆くときは大いに嘆いたらよいと思いますが、ただ自分の嘆きに留まっていてはならないのです。そこに留まるならば、力を失っていくだけだからです。弱っていくだけだからです。神の前に嘆きを注ぎ出したなら、今度はそこで神の言葉を聞かなくてはならないのです。今度は主が問い返されるのです。「なぜ」と。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。

 主の問いかけは恵みであると言えます。主の「なぜ」は私たちを不信仰と嘆きの穴から引き上げるための問いかけであるからです。主が「なぜそうしているのか」と問われるのは、そうする必要がないことを主は知っておられるからです。「なぜ嘆いているのか」という問いは、「もう嘆く必要はないではないか」という語りかけでもあるのです。

 「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と、わたしの裁きは神に忘れられた、と」(27節)。ならば、もはやそのように語り、断言し、嘆き続けている必要はないのです。どうしてか。預言者を通して主はさらにこう語られるのです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい」(28節)。

聞いたことはないのか

 「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と主は問い続けます。そうです。本当は既に知らされていることがあるのです。既にこれまで聞いてきたことがあるはずなのです。私たちの主がどのような御方であるかを既に知らされているのです。ならば思い起こさなくてはならないのです。

 今自分が感じていることに留まっている限り、嘆きの中に留まり続けることになるでしょう。「わたしの道は主に隠されている」と感じているのですから、そこに留まっているかぎり、嘆き続けることになるのです。しかし、主が既に御自身について語ってこられたことがあるのです。主は、多くの言葉をもって、主が「とこしえにいます神」であり、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」であることを既に語っていてくださったはずなのです。今こそ何を聞いてきたのか、何を知らされてきたのかを思い起こさなくてはならないのです。

 「主は、とこしえにいます神」(文字通りには「永遠の神」)とありますが、そこで重要なのは「永遠の昔」でも「永遠の未来」でもありません。「永遠から永遠まで常に」ということです。すなわち、「今ここにおいても」ということです。すなわち、「わたしの道は主に隠されている」と思える今この時も、「わたしの裁きは神に忘れられた」と思える今この時も、ということです。

 神不在と思える現実においても、実は不在などではなく、「その英知は究めがたい」と語られているその英知をもって神は支配しておられるのです。実際、あの時もそうでした。キリストが不当な裁きによって十字架にかけられたその時においてさえ、全地が暗黒に包まれたあの時でさえ、神は全てを支配しておられたのです。そして、実はその時においてこそ、最も大いなる救いの御業が成し遂げられていたのです。確かに「主は、とこしえにいます神」です。

 そして、神は「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」です。実はこれは意訳であって、もともとは「地の果ての造り主」と書かれているのです。しかし、もちろん地の果てを問題にしているのではありません。どこか遠いところにおいてではなく、「ここにおいても」ということです。地の果ての造り主であるならば、今目にしている目の前の世界もまた、主の手の内にあるのだ、ということです。この世界の諸々の問題も、人間の手に負えない諸々の課題も、全て神が造られた世界の中でのことです。主の手が及ばないことは何一つないのです。

 そして、私たちが知らされていること、聞かされていることは、さらには既に救い主が到来したこと、そして救いの御業を成し遂げて、復活されて、やがて完全な救いをもたらすために再びおいでになることにまで及んでいるのでしょう。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と問われるなら、私たちは答えることができるはずです。「主よ、確かに知らされております。聞いております」と。

 ならば、私たちはそこから再びその御方に思いを向けることができるはずです。私たちが知らされている御方、聞かされている御方に心の目をしっかりと向けることができるはずです。私たちは待ち望むべき未来を持っているのです。

 私たちが不信と嘆きの中から再び立ち上がり、主に望みをおくならば、与えられている約束の言葉はこれです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神は私たちに力を与えてくださいます。私たちは天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。私たちは主に望みをおく人として、主に望みを置く神の民として、この新しい年を共に歩んでまいりましょう。


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