サムエル記下15:24~37
今日は15章の後半をお読みします。既に先週お読みした17節以下からの部分において、都から逃れていくダビデと、彼に従った人々との関係が一つ一つ丁寧に描かれています。そしてそこに描かれています関係は、その直前のアブサロムと彼に従った人々との関係とまさに好対照をなしているのです。
先週読みましたように、アブサロムが目を付けたのはダビデ王家に不満を持っている人たちでした。北の諸部族の人々、ヘブロンの人々、そしてバト・シェバの祖父アヒトフェルなどです。アブサロムに従った人々は、ダビデへの不満と敵意を共通項としている人々です。いわば不満と敵意によって統一された人々なのです。一方、17節以下には、ダビデと彼に従った人々が、共通の敵意によって結ばれていたのではなく、互いへの深い愛と信頼で結ばれていたことを示しているのです。
既に、ガト人イタイについては先週見てきました。アブサロムに付いた方が亡命者である彼にとっては絶対に有利であるにもかかわらず、彼はダビデと困難を共にする方を選んだのでした。そして、後に見るように、このイタイは、指揮官の一人として、アブサロムの軍との戦闘において重要な役割を演じることになるのです。そして、今日の箇所においてダビデの味方として現れてきますのは、聖所に仕える祭司たちとレビ人たち、およびアルキ人フシャイです。
ツァドクをはじめレビ人全員が神の契約の箱を担いで来ていました。これはアブサロムの手から契約の箱を守るためではありません。いくらアブサロムといえど、聖所や神の箱に手を出すことはできません。そんなことをしたら全イスラエルを敵に回すことになります。
しかし、これまで見てきましたように、アブサロムは極めて世俗的な人間です。この前にも後にも、祭司や預言者との関わりが全く記されてはおりません。アブサロムが預言者から言葉を受けたり、祭司の持つウリムとトンミムによって御心を尋ね求めることはないのです。そのように、祭司や預言者との関係は皆無ではなかったにせよ、非常に薄かったと思われます。
ですから、祭司たちとレビ人たちはダビデに従って出ることを決意したのです。そして、神の箱もまた、アブサロムの王国に留まるよりも、ダビデと共にあるべきであると彼らは考えたのでした。もちろん、神の箱を携えてダビデと行動を共にすることは、祭司たちやレビ人にとって危険なことであったに違いありません。にもかかわらず、彼らは神の箱を運び出してきたのです。
一方、神の箱が運ばれてきたことは、ダビデにとっても極めて有利なことでした。レビ人がダビデの側に付き、神の箱がダビデのもとにあることを知れば、アブサロムを支持する人々の間に大きな動揺が生じることは間違いありません。それはアブサロムの支持基盤そのものが危うくなることを意味するのです。
また、アブサロムと共にある多くの兵士たちは、神の箱がダビデのもとにあることを知ったならば、きっと攻撃を開始することに恐れを抱くに違いありません。そして、ダビデに従った人々にとっては、これが何よりも神がダビデと共にあることの見えるしるしとなり、彼らの士気を高めるものとして機能することになるでしょう。
しかし、驚いたことにダビデは彼らをエルサレムに帰らせるのです。彼は言いました。「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」(25節)。ダビデは、それがどんなに自分の有利に働くとしても、神の箱を自分のために用いることをしませんでした。神さまを自分の側に引き寄せて、自分の助けにするのではなく、自分自身を神の懲らしめと憐れみの御手にゆだねたのです。
ダビデをしてそのように語らせたのは、主への揺るぎない信頼でした。荒れ野に再び追いやられることによって、ダビデは主への信頼へと立ち帰ったのです。ダビデは「主がわたしを愛さないと言われるときは」と言っていますが、それは主の愛を疑っているのではなく、主に愛されていることを心から信じている者の言葉に他ならないのです。
ダビデはは、主がきっと憐れんでくださり、彼を再びエルサレムへと戻してくださることを信じているのです。ですから、25節の言葉と一見矛盾するように見えますが、ダビデは事の成り行きにただ身を任せるのではありません。「主の御手に身をゆだねること」は「成り行きに身をゆだねること」ではないのです。ダビデはそこで為しえる最善を尽くすのです。
「王は祭司ツァドクに向かって言葉を続けた。『分かったか。平和にエルサレムに戻ってもらいたい。息子のアヒマアツとアビアタルの子ヨナタン、この二人の若者を連れて帰りなさい。分かったか。わたしはあなたたちからの知らせを受けるまで、荒れ野の渡し場で待っている』」(27‐28節)。このように、ただツァドクやアビアタルをエルサレムに戻すだけでなく、そこからの情報が届くように手配したのです。そして主は確かに、そのダビデがエルサレムへと送り込んだ人々を用いて、ダビデを危機から救い出されるのです。
そして、もう一人の味方として現れてきますのはフシャイです。その直前にはこう書かれています。「アヒトフェルがアブサロムの陰謀に加わったという知らせを受けて、ダビデは、『主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください』と祈った」(31節)。
ここにも、「主の御手に身をゆだねること」と「成り行きに身をゆだねること」の違いが現れています。ダビデは主に祈るのです。そして、いわばこの祈りに答えるようにして、主はフシャイを与えられたのでした。
彼は、「ダビデの友」と呼ばれています。それは高官の職位名でありますが、同時に実質を現しています。フシャイは、嘆きの姿をもって、ダビデを迎えます。ダビデは彼の存在こそ、先の祈りの答えであることを悟ったのでしょう。そのフシャイをダビデはエルサレムに帰して言います。「お前はわたしのためにアヒトフェルの助言を覆すことができる」と。そして、事実、このフシャイによってダビデは危機から救い出されることになるのです(17章)。
さて、以上のことを見た上で、さらにこのダビデの物語が、後の人々、特にこれを読んだ捕囚の民にとってどれほど大きな慰めとなったであろうか、ということを考えるべきでしょう。ダビデの物語は、彼が荒れ野へと追いやられた時、決して神から見捨てられてしまったのではないことを伝えているのです。荒れ野において、彼の助けが神によって備えられ、そこにおいてもなお神が憐れみをもってダビデの祈りを聞き、祈りに答えて将来へ備えてくださったことを伝えているのです。
あのダビデと同じように、捕囚の民もまた、試練の荒れ野へと追いやられた人々でありました。そして、エルサレムから離れ、神殿をも失ってしまった人々に対して、預言者エレミヤは、安易な解放を望むのではなく、神の裁きに服して救いの時を待ち望むように語りました。
主はエレミヤを通して、捕囚の民にこう言われたのでした。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(エレミヤ29:11以下)と。ダビデの物語は、この主の言葉がまことに真実であることを彼らに示したに違いありません。
私たちもまた、しばしば主の懲らしめのもとに置かれます。その時、この物語は、私たちがいかに主に信頼して歩むべきかを教えてくれるものとなるでしょう。