サムエル記下 16:1-23
15章17節以下には、都落ちをしたダビデになおも従おうとする人々の姿が描かれていました。私たちは、ガト人イタイ、祭司やレビ人たち、そしてアルキ人フシャイとダビデとの関係が、アブサロムとその追従者たちとの関係といかに異なるかを見てきました。ダビデと彼に従った人々がいかに深い愛と信頼の絆で結ばれていたかを見ます時、それが苦境にあるダビデにとって、どれほど大きな慰めであったかを思わせられます。
しかし、16章に入りますと、王位を追われたダビデに、幾多の厳しい現実が情け容赦なく降りかかってきたことが改めて語られます。ダビデの喜びとなる人々だけでなく、そこにはまた悲しみとなる人々もいるのです。ここで登場してきますのは、ツィバ、シムイ、そしてアヒトフェルです。
ダビデが山頂を少し下ったとき、メフィボシェトの従者ツィバがダビデを迎えました(1節)。ツィバが足の萎えたヨナタンの子メフィボシェトの従者となった次第は、9章に記されていました。彼はもともとサウル家に仕えていた者です。「ツィバには十五人の息子と二十人の召使いがいた」(9:10)という言葉は、彼が既にサウルの従者として相当の勢力を得ていたことを示しています。その彼が、いかにサウル家が没落したとはいえ、足の萎えた者の土地を耕す小作農の如き位置に置かれたことは、決して喜ばしいことではなかったに違いありません。
そこで彼は、クーデターの混乱に乗じて、メフィボシェトの土地財産を我がものにしようと画策いたします。ツィバは二頭の鞍を置いたろばに、二百個のパン、百房の干しぶどう、百個の夏の果物、ぶどう酒一袋を積んでダビデを迎え、「ろばは王様の御家族の乗用に、パンと夏の果物は従者の食用に、ぶどう酒は荒れ野で疲れた者の飲料に持参いたしました」と言って差し出します。そして、メフィボシェトについてダビデから尋ねられますと、こう答えたのです。「エルサレムにとどまっています。『イスラエルの家は今日、父の王座をわたしに返す』と申していました」(3節)。こう言って、主人であるメフィボシェトを悪し様に訴えたのでした。
実際、これが全くの偽りであったことは後に明らかになります(19章25節以下)。しかし、ダビデはそのことを知りません。王はツィバに、メフィボシェトに属する物をすべてツィバに与えてしまいます。それこそツィバが求めていたことでした。一方、ツィバの言葉を信じたダビデは、ヨナタンの子メフィボシェトに裏切られたと思っているわけですから、それはダビデにとってどれほど大きな悲しみであったかと思います。
そして、さらにその悲しみに追い打ちをかけるように、ダビデがバフリムにさしかかった時、シムイという男が呪いながら石を投げつけてきます。彼はサウル家の一族の出でありました。彼はダビデを呪って言います。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ」(7‐8節)。いくら都落ちをしたダビデとは言え、共の勇士たちが左右を固めている王に石を投げつけるのですから、それこそ彼は、ある意味で、命がけでダビデを呪っているのです。
サムエル記がこれまで強調してきたように、ダビデは決してサウルの王位を奪ったのではありません。しかし、現実には、そのような見方が、ベニヤミン族を中心として、根強く残っていたことがこのエピソードからよくわかります。
もちろん、ダビデにとってシムイの呪いの言葉は、サウル王家に関するかぎりまったく謂われのない事でした。しかし、彼の最後の言葉はダビデの心に深く突き刺さったに違いありません。シムイはこう言ってダビデを呪ったのです。「お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ」(8節)。シムイはもちろんかつて起こっていたサウル王家を支持するイスラエル諸部族とダビデを王に立てたユダとの戦争の話をしているのです。しかし、ダビデとしては、自分がウリヤを殺害したことを思い起こさずにはおれなかったことでしょう。
一方、アブサロムはイスラエル人の兵士を率いてエルサレムに入城し、王宮を占拠します。聖書はここで「アヒトフェルも共にいた」と伝えています。アヒトフェルがいかに有能な顧問であったかは、彼の提案が常々「神託のように受け取られていた」(23節)という言葉から分かります。そのような男がアブサロムに寝返ったことは、ダビデにとって大きな痛手でした。
アブサロムはエルサレム入城後、早速アヒトフェルに策を練るよう要求します。アヒトフェルはアブサロムに、父ダビデの残した側女を自分のものとし、ダビデとの対立が決定的になったことを全イスラエルに示すことを提案しました。そして、その提案に従い、アブサロムは屋上に張られた天幕において、全イスラエルの注目の中で、父ダビデの側女たちのところに入ったのです。
この出来事は、ダビデとアブサロムとの関係が、もはや決定的に和解不可能なものとなったことを意味しました。それはダビデにとって、最も悲しむべきことでありました。しかし、それはまた何よりも、ナタンの預言の成就に他ならなかったのです。かつてナタンはダビデに主の言葉を告げて言いました。「見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう」(12:11)。
さて、このようなダビデを襲った一連の苦しみの中において、これらを神の懲らしめの御手として受け入れ、その御手に身をゆだねるダビデの姿を、聖書は描き出しております。特に今日の聖書箇所において印象的なのは、ヨアブの兄弟、ツェルヤの子アビシャイとのやりとりです。
シムイがダビデを呪って石を投げつけた時、アビシャイは王に言います。「行かせてください。首を切り落としてやります」。するとダビデはこう答えたのでした。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう」(10節)。そして、さらに言います。「主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない」(12節)。
ダビデはこの苦境にあって、自らの罪を思うのです。呪いを受けても仕方のない自分であることを思うのです。そのようなダビデにとって、神が呪いに代えて幸いを与えてくれることは決して当然のことではありませんでした。それは神の憐れみによるのであって、ただダビデはひたすら、神の憐れみにすがるのです。自分は神の憐れみを受ける資格など全くないことを知りながらも、神はきっと憐れんでくださると信じて、憐れみを求めるのです。
実際、苦境において神を求めるあり方は、ある意味で二つに分かれると言えるでしょう。そこで自らを省みることなく、神なのだから幸いにしてくれて当然、救ってくれて当然と思いながら神に向かうのか。それとも自らの罪を思って、本来ならば断罪され滅ぼされても当然であることを認めながらも、なおひたすら神の憐みにすがって望みを抱くのか。もし前者なら、なかなか事態が好転しないときに、どうして神は助けてくれないのか、と言って腹を立てたり神を呪ったりするようにもなるのでしょう。結局、人はその点において、神を求めるあり方は二つに分かれるのです。
そして、そのように神の憐れみに自らを託したダビデを、確かに神は見捨てることなく、顧みておられたのです。エルサレムにはアヒトフェルだけがいたのではなく、そこにはフシャイもいるのです。それは神がダビデの祈りに答え、ダビデのために備え給うた人物に他なりませんでした。神はこのフシャイを通して、ダビデに逃れの道を備えられたのでした。そのことを私たちは続く17章に見ることになるのです。