コリントの信徒への手紙一 12:14‐26
あなたがたはキリストの体
今日の聖書箇所の直後には、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)と書かれています。今日の箇所においてパウロが語っているのは、キリストの体なる教会についてです。「キリストの体」とパウロが言う時、それは単にものの喩えではありません。「教会は体のようなものだ」と言っているのではなく、「教会はキリストの体である」と言っているのです。
これを書いているパウロはもともと教会の迫害者でした。しかし、迫害の手を伸ばすためにダマスコへと向う途中、彼は天からの光に照らされ、地に打ち倒され、そこで天からの声を聞いたのです。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と。パウロが「あなたはどなたですか」と問うと答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。
パウロが迫害していたのは教会でした。捕らえて投獄していたのは個々のキリスト者でした。しかし、キリストは「なぜ、わたしを迫害するのか」と言われたのです。教会がキリストの体であるとはそういうことです。体の一部が迫害されるならば、「なぜ、わたしを迫害するのか」と主は言われるのです。そのように各部分がキリストと分かちがたく結ばれている。そのようにキリストが私たちを自分自身として見ていてくださるのです。神はそのように私たちとキリストとを結び合わせてくださいました。
このようなキリストと各部分との関係を念頭に置いてこそ、また各部分お互いの関係を考えることができるのです。まずお互いの関係が先にあるのではありません。それが分からないと、今日の聖書箇所に書かれているような問題が起こります。
わたしは要らない
パウロはコリントの教会の中のある人たちに語り掛けます。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(15‐16節)。
コリントは当時有数の大都市でした。そのような大都市にある教会に対して、パウロはこの手紙の冒頭でこう語り掛けています。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(1:5)。そこには多くの優れた伝道者や教師たちがいたようです。商業的中心地であるだけでなく、文化的な中心であるその都市においても、豊かな知識をもって人々に語りかける力を持っていた人たちがいたのです。
それだけではありません。そこには神の霊の著しい働きが見られました。その教会は、聖霊の賜物においても豊かな教会でした。12章8節以下には、賜物のリストが挙げられています。そこには奇跡を行う人、癒しを行う人、預言をする人などがいたのです。使徒言行録に描かれているような、奇跡や癒しの業が当たり前のように起こっていた教会だったと思われます。
しかし、そのように著しい働きをする人々が数多く存在している一方で、そのような人々と自分を比べて、自分は必要のない存在だと感じていた人たちもまたいたようです。「わたしは手ではないから、体の一部ではない」とは、いわばそのような人たちの心の声です。
そして、教会の話に限らず、人と自分を比較して、心がこんなことを言い出すことがあることを、確かに私たちも知っています。私は頑張っても手にはなれないし・・・。手と同じこともできないし・・・。そんな私はここには必要ではない。私は要らない。私はいてもいなくても同じ。そう心が語り出します。
これが自分の外に響いている声ならば、人の噂にせよ、マスコミの報道にせよ、「声」は事実そのものではないことを私たちは知っています。ですから、何かを聞いても、一応「ほんとうかな?」とも考えますし、単純に無条件で信じるわけではないでしょう。しかし、これが自分の心が語る言葉になりますと、無条件で丸々信じてしまうのです。本当は、心の声もまた、単なる心の声なのであって、事実そのものではないにもかかわらず。
だから、パウロは言うのです。「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」。心が何を思おうが、心が何を語ろうが、それは事実そのものではないし、心の声で事実が変わるわけでもありません。キリストの体について言うならば、私たちがどう思うかが先にあるのではなく、キリストの体の部分とされているという事実が先にあるのです。
私たちはただ恵みにより信仰によって救われたのです。私たちは恵みによって神に受け入れられたのです。恵みによってキリストに結ばれたのです。神の恵みによってキリストの体の部分とされたのです。「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」(18節)と書かれている通りです。私たちがどう思おうが、どう感じようが、神が望まれたゆえに、私たちは神によってキリストの体の一部として「置かれた」のです。
お前は要らない
さて、パウロはさらにこう続けます。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(21節)。これは今まで述べてきたことと表裏一体であると言えます。「わたしは要らない」という声があるところには、「あなたは要らない」という声もまたあるからです。必ずしも別な人の言葉ではありません。「わたしは要らない」と言う人は、立場が変われば「あなたは要らない」と言い出すのです。
それは大事なことが分かっていないからです。要るかいらないかは私たちが決めることではない、ということです。先に見たように、神は「ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」のです。強い部分であろうが、弱い部分であろうが、神が望みのままに置かれたのです。それゆえに、パウロはさらにこう言うのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)。
ここで「ほかより弱く見える部分」とは、ただ肉体的な弱さやハンディキャップだけを意味するのではありません。私たちの抱えている《弱さ》はそれこそ多種多様です。この言葉は「信仰の弱さ」をさえ意味するのです。この手紙の8章においては、信仰的に未成熟な人、まだ異教的な部分を引きずっている人などについて語られていますが、そのような人たちが「弱い人々」と呼ばれているのです。さらに言うならば、これまで自分の強さで困難を乗り切ってきたゆえに他の人の弱さをなかなか受け入れることができないという《弱さ》を抱えている人もいるでしょう。
そのように人の抱える《弱さ》は多様です。ある意味では、誰もが欠けた部分を持っている。その意味では誰でも「ほかより弱く見える部分」であり得ると言えるでしょう。そのような弱い部分はないに越したことはないと私たちは通常考えているのでしょう。しかし、聖書は言うのです。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。
互いに配慮し合って一つとなるために
いやそれだけではありません。24節にはこう書かれています。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」要するに、人間の目には「見劣りのする部分」としか見ないかもしれないのだけれど、実はそこに神様が特別になさっていることがあるのだ、と言っているのです。神様が特別に目をかけ「引き立たせて」おられる。神様が特別に与えている美しいものがあるのです。弱さの中においてこそ神様がなさっていることがあるのです。ならば、そこにこそお互い目を向けるべきなのでしょう。
そのように、神様は教会の中に「ほかよりも弱く見える部分」を残され、その部分に神様御自身が特別な美しさを与えられます。それは何のためでしょうか。「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)とパウロは言うのです。
「ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。そう言えなくなる時に、私たちは分裂へと向かっているのです。弱く見える部分を神が引き立たせておられることに目を向けなくなる時、そこに神の与えている美しいものがあることに目を向けなくなる時、私たちは分裂へと向かっているのです。神のなさっていることではなく、お互いの弱さにしか目を向けなくなるなら、「わたしは要らない」「お前は要らない」と言い始めるからです。
神様は恵みによって私たちをキリストの体の部分としてくださいました。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」。キリストは、私たちが強かろうが弱かろうが、御自分と同一視するほどに大切に思ってくださいます。その恵みの事実がまず先にあるのです。そこで神様が私たちに望んでおられるのは「わたしは要らない」と言うのでもなく、「お前たちは要らない」と言うのでもなく、お互いの様々な弱さのあるところにおいてこそ「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(25節)と言えるキリストの体を形づくっていくことなのです。
2022年8月7日日曜日
「互いに補い合い、配慮し合って生きるため」
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