マタイ16:13‐20
教会の土台
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(18節)とイエス様は言われました。「わたしの教会」と主は言われるのです。教会はキリストの教会です。いかなる意味においても、教会は私たちのものではありません。そして、教会がキリストの教会でありますゆえに、教会を建てるのもキリストの御業です。「わたしがわたしの教会を建てる」と主は言われるのです。
もし、私たちが《私たちの教会》を建てるのならば、その土台も私たちが据えるのでしょう。「私たちはこのような理念に基づいて教会をつくりましょう」と言うこともできる。しかし、それでは「私たちの教会」にはなっても、キリストの教会にはなりません。キリストがお建てになる《キリストの教会》であるならば、その土台を据えるのはキリスト御自身です。
では、その土台とはなんでしょうか。主は言われました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。イエス様は弟子のシモンをペトロと呼ばれます。主の用いておられたアラム語ならば「ケファ」となります。「ケファ」とは「岩」という意味です。そして、「この岩(ケファ)の上にわたしの教会を建てる」と主は言われたのです。ですから、直接的には、教会の土台である「この岩」とはペトロのことです。
しかし、「この岩」は単に人間ペトロを指しているのではありません。実際、ペトロその人について言えば、ここで教会の土台である「岩」と呼ばれたにもかかわらず、その直後には「サタン、引き下がれ」(23節)と叱責されています。岩ともなるし、サタンの手先ともなる。それが人間ペトロです。ですから、大事なのはペトロその人ではありません。教会の土台は、ペトロが口にした、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白なのです。
その信仰告白は、その前に書かれている人々の声と対比されております。イエス様が弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(13節)と尋ねられました。すると、弟子たちはこう答えたのです。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(14節)。
今日においても、イエスを歴史上の偉大な人物とみなす人は少なくはありません。偉大な教師であり、預言者である御方。しかし、それだけならば教会でなくても言うのです。イスラムの人々もイエスを偉大な預言者と考えています。この世におけるイエス理解は実に様々です。
しかし、教会の土台となる信仰とは、イエスという御方に向かって、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言い表すところにあるのです。イエス様が弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われました。誰かがそう言っているということではなくて、ペトロのように、私たち自身が、自分の口で、この御方に向かって、「あなたはメシアです。生ける神の子です」と告白する。それはすなわち、この御方にこそまことの救いがあることを認めることです。そして、この御方にこそ、私たちを救い得る絶対的な権威と力があることを信じることです。
さて、「あなたこそメシアです。生ける神の子です」という言葉を聞いたイエス様は、ペトロにこう言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)。ところが不思議なことに、そのイエス様について、20節にはこう書かれています。「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」。
イエス様は「御自分がメシアであることを宣べ伝えなさい」とは言われなかったのです。なぜでしょうか。ペトロはまだすべてを見てはいないからです。ペトロにはまだ見るべきことがあるからです。知るべきことがあるからです。それは他の弟子たちについても同じです。ですから、それまでは誰にも話してはならない、と主は言われたのです。
では、彼らが見るべきこと、知るべきこととは何だったのでしょうか。その直後にこう書かれております。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(21節)。
そのように、彼らはイエス様の受難と復活を見なくてはならないのです。このことを通して、初めて彼らは本当の意味で、イエスをメシアであると告白することができ、またメシアとして宣べ伝えることができるのです。すなわち、イエスを《十字架にかけられて死に、三日目に復活したメシア》として告白し、そのように宣べ伝えることができるのです。
マタイによる福音書1章には「イエス」という名前の由来が記されています。主の天使が夢においてヨセフに現れ、こう言ったのです。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(1:21)。そのように、イエスがメシアとして来られたというのは、「罪からの救い主」として来られたということです。
「罪から救う」。聖書には当たり前のように書かれていますし、そのように日本語にも翻訳されているわけですが、一般的な日本語会話において「罪から救う」という表現はほとんど使われません。しかし、この一般的でない表現こそ、まさにキリスト教の真髄に当たるのです。
人間は古代から現代に至るまで多くの苦悩を背負った存在であることに変わりありません。ですから、人は様々な苦しみからの救いを求めてきましたし、様々な救いが与えられてきたのです。しかし、聖書は、人間の決定的な悲惨、根元的な苦悩は神を失っていることだと語るのです。人が渇いているとするならば、その渇いている事実そのものが悲惨なのではなくて、生ける水の泉を持っていないことが悲惨なのです。私たちに欠けているのは、与えられて補われる「何か」ではないのです。そうではなく、私たちに必要なのは神ご自身なのです。それゆえ、私たちに必要とされているのは私たちが神に帰ることができることなのです。赦された者として神と共に生きることができる、ということなのです。
そのためには何よりもまず、神と人間とを隔てている罪が取り除かれなくてはなりません。神の御子の御苦しみによって、御子の血によって、罪が贖われなくてはならないのです。人間は罪を赦された者として、神のもとに回復されねばならないのです。それゆえ、私たちは《罪から救われなくてはならないものとして》、イエス様に向かって次のように信仰を言い表すのです。「あなたはメシアです。私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったメシアです。あなたこそ生ける神の子です」と。これが岩なのです。教会の土台なのです。この岩以外に、いかなるものも教会の土台にはなりません。この岩の上にこそ、キリスト御自身が教会をお建てになるのです。それがキリストの教会なのです。
陰府の力もこれに対抗できない
そして、そのような《キリストの教会》であるからこそ、キリスト御自身がこう宣言されるのです。「陰府の力もこれに対抗できない」と。
「陰府の力」。文字通りには「陰府の門」です。陰府とは死の世界です。ですから、これは「死の力」「死の門」と言いかえてもよいでしょう。死の力がいかに強大であるか、私たちは皆、良く知っています。いかなる人も死の力にはかないません。いかなる権力者も、いかに屈強な人でも、いかに裕福な人でも、いかに優秀な人でも、必ず死に飲み込まれていきます。陰府の門はすべてを飲み込んでしまいます。しかし、キリストは言われたのです。「陰府の力も教会には対抗できない」と。
なぜ陰府の力、死の力はもはや教会に対抗できないのでしょうか。キリストがペトロに対して、すなわちペトロの告白した信仰を土台としている教会に対して、このように言われるからです。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と。教会は天の国の鍵を授けられた民であるからです。
天の国が閉ざされるとするならば、それは人間の罪のゆえに閉ざされるのです。ならば罪深い私たち人間に対して天の国が開かれるとするならば、それは罪の赦しによる以外にありません。その意味において、天の国の鍵とは、《罪の赦し》に他なりません。キリストは、罪の赦しを、教会に与えてくださったのです。キリストが罪の赦しを、天の国の鍵を与えることができるのは、キリスト自らが、罪の贖いを成し遂げられたからです。この御方こそ、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったメシアであり、生ける神の子だからです。その御方が「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言ってくださったのです。
教会のすべての営みは、この計り知れない恵みによって成り立っています。それゆえにまた、教会のすべての営みは、この計り知れない恵みへの応答としてなされているのです。私たちが今、共に礼拝をささげているのもそのゆえです。
キリストが建てられるキリストの教会として、キリストが集められた神の民として、私たちは週毎に共に礼拝をささげます。この場所に集まれる時も、集まれない時にも、共に礼拝をささげます。これは、この世が与え得るいかなるものによってではなく、「天の国の鍵」という天からの恵みによって成り立っている霊的な出来事なのです。それゆえに、天からの恵みに対して、私たち自身をささげる応答でもあるのです。
そこからこの世に派遣されて、福音を宣べ伝えること、神と人とに仕えて生きることについても同じことが言えます。それは既に与えられている天からの恵みによって成り立っているのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表す者として、キリストの教会として、ここから遣わされていきましょう。
(祈り)