マタイによる福音書 20:20-28
王座にお着きになるときには
「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」(20節)。
ゼベダイの息子たちとはヤコブとヨハネです。その母親がイエス様の御前に来てひれ伏した。「二人の息子と一緒にイエスのところに来て」と書かれていますから、ヤコブとヨハネの二人も、イエス様の御前に来て一緒にひれ伏したのでしょう。そこで主は問いかけます。「何が望みか」。
ヤコブとヨハネの母親は答えました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。彼女はイエス様が王座に着いた時のことを考えています。恐らくゼベダイの息子たちも同じです。マルコによる福音書にも同じ話が出てきます。そこでは、この二人の息子たちが直接願ったことになっています。母親が口にした願いは、この二人の願いでもあったということでしょう。そのように、彼らもまたイエス様が王座に着くことを信じているのです。後に見るように、他の弟子たちについても同様のことが言えます。
イエス様が王となられる。イエス様が王座に着かれる!彼らがそのように信じたことは理解できます。なにしろ、それまでに数々の奇跡を目の当たりにしてきましたから。とてつもない神の力がこの御方を通して現実に働くことを目撃してきたのです。しかも、この御方の周りに集まってくる人たちは数千人規模にも膨れあがっていたのです。しかもイエス様は大群衆と共に神の都エルサレムに向かって進んで行かれるのです。
イスラエルが待ち望んでいたことがついに実現するのだ!イエス様を取り巻く巨大な群衆において、そのような期待が一気に膨らんでいったことは容易に想像できます。そのような彼らの期待は、この後の21章にもよく現れています。イエス様がエルサレムに入城する時には、大勢の群衆が自分の服を道に敷き、前に行く者も後に従う者もこう叫んだのです。「ダビデの子にホサナ!」「ホサナ」とは「救ってください!」という叫びです。まさに彼らは救い主として到来した王を迎えたのです。この御方を王とした王国が実現することを信じて、彼らは叫んだのです。「ダビデの子にホサナ!」
今日お読みしたのは、そのような人々の期待と興奮が渦巻く中での出来事なのです。この御方が王座に着く時がやってきた!そこでヤコブとヨハネが母親まで巻き込んで抜け駆けをしたのです。あるいは母親が彼らを巻き込んだのかもしれません。いずれにせよ、イエス様の前にあって、これは三人共通の思いだったはずです。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。
誰が一番偉いのか
しかし、想像してみますと、これは実に異様な光景であるとも言えます。抜け駆けは普通内緒でするものではないでしょうか。しかし、この場合、他の十人はそこにいるのです。声が聞こえるところにいるのです。いや、そこに他の十人がいるからこそ、彼らにも聞こえるように、イエス様に「おっしゃってください」と願っているのです。まるで、イエス様がこの二人を特別扱いすることが当然であるかのように、この母親はそう言っているのです。そして、明らかに当のヤコブとヨハネも、それを当然のことのように思っていたのです。先にも言いましたように、マルコによる福音書では、この二人が願ったこととして書かれているのです。
もちろん、彼らの願いは、全く根拠のないものではありません。先週読まれたのは17章でした。山の上でイエスの姿が変わったという話です。その高い山にイエス様が連れていったのは、ゼベダイの息子たちとペトロだけでした。実際、その他にも、この三人だけがイエス様にお供することは、少なからずあったものと思われます。この後、26章に書かれていますゲッセマネの園の場面でも、イエス様が共に祈るために連れて行ったのはヤコブとヨハネ、そしてペトロだけでした。
ですから、いよいよイエス様がエルサレムに向かおうとしておられた時、いよいよイエス様が王座に着かれると期待される時、二人の息子の母親は、当然のこととしてイエス様に願ったのです。みんなの前で!「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。それは実際的に必要なことでもあったのだと思います。三人いますから。このあたりではっきりさせなくてはならない。ペトロは三番目にしておいてもらわなくてはならないということでしょう。
しかし、そのことに腹を立てたのはペトロだけではなかったのです。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」(24節)と書かれています。ただ抜け駆けをされたからではありません。先を越されたからではありません。彼らが腹を立てたのは、明らかに下に見られたからです。この母親に自分の息子たちよりも下に見られたからです。いや当のヤコブとヨハネによっても下に見られたからです。母親も息子たちも、王座の左右に座ることを当然のこととして語っている姿に、自分たちを他の十人よりも上にいるものとして語っている姿に彼らは腹を立てたのです。
先ほど、「想像してみますと、これは実に異様な光景である」と申しましたが、トータルに見るならば、これはこの世における私たちの経験の中にいくらでも見られることではないかと思います。誰からどのように扱われたかで、自分を高く見積もってみたり、自分を低く見積もってみたり、自分が上だと思えば人を見下してみたり、自分が下だと思えば妬んでみたり嫉んでみたり、人から上に見られれば悦に入り、人から低く見られ軽く見られれば腹を立て・・・。そんな世の中にあの弟子たちは生きていたのでしょうし、そんな世の中に私たちもまた生きているのでしょう。
仕える者になりなさい
だからこそ、そんな弟子たちをイエス様は呼び寄せて、こう言われたのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(25‐28節)。
あの母親は主の前にひれ伏して言いました。「王座にお着きになるとき・・」と。そこから始まったのです。それは間違いではありません。イエス様はこの世に来られたまことの王です。この御方こそ王座に着くべき御方です。しかし、今日の聖書箇所を読む時に、決定的に重要なのは、その「王座にお着きになるとき・・・」という言葉をこの母親がいつ口にしたのか、ということなのです。今日の聖書箇所は「そのとき」という言葉から始まっているのです。大事なのは「そのとき」がいつなのか、ということです。
今日の箇所の直前にはこう書かれています。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する』」(17-19節)。
エルサレムに上って行く途中、改めて主は御自分の受難を予告されたのです。マタイによる福音書においては、これが三度目の受難予告です。そのことを語るために、あえて群衆を離れて、十二人の弟子だけを呼び寄せられたのです。そして、主が語られたまさに「そのとき」、あの母親が、二人の息子と一緒に来て、ひれ伏し、そしてあの言葉を口にしたのです。「王座にお着きになるとき」と。
彼らは何を聞いていたのでしょう。いや、彼らだけでない、他の十人もいったい主から何を聞いていたのでしょう。本当に聞いていたのでしょうか。
イエス様が予告された御受難について、今日の聖書箇所では、「仕えられるためではなく仕えるため」また「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」と主は表現しておられます。主が考えておられたのは「仕えること」だということです。主は引き渡され、死刑を宣告され、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられることになる。しかし、主が語っておられたのは、ただその苦しみを甘んじて受けるということでも、運命として受容するということでもなかったのです。そうではなく、王座に着くべき御方は「仕えること」を考えておられたのです。仕えるために来られ、仕えるためにエルサレムへと向かっておられたのです。そして、仕えるということはすなわち命を献げる(与える)ことだったのです。主にとって、この世の「命」は仕えるための命、与えるための命だったのです。
イエス様は王です。キリストの王国の王です。しかし、キリストの王国は上下が逆になっている王国なのです。「支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」。それがこの世の王国です。それとは全く逆の、王が民のために仕えて命まで与えてくださった、そのような王国なのです。そのような王国のそのような王の前に、彼らは「そのとき」いたのです。その王から「何が望みか」と聞かれたのです。そのような王国の王座の右と左に座りたいと願うならば、それは何を意味するのでしょう。それは「仕える者となる」ということなのでしょう。彼らはそれが分かっていなかった。だから「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われたのです。
今、主を礼拝している私たちに、主は言われます。「何が望みか」と。私たちが願っていることは何でしょう。それは「仕える者となる」ことでしょうか。
(祈り)