1コリント1:18‐25、マタイ27:45-56
宣教という愚かな手段によって
頌栄教会の十字架は遠くから良く見えます。礼拝堂の正面にも大きな十字架が掲げられています。教会としては当たり前のことで、誰も不思議に思いません。しかし、十字架はもともと死刑の道具です。その意味ではギロチンや絞首台と同じです。ならばそれが高く掲げられていたり、部屋の正面にあるのは、本来はとても奇妙なことであり、この世の観点からするならば、愚かなことであるはずです。
教会はその初めから、奇妙で愚かに見えることを行ってきました。他の犯罪人と共に十字架にかけられた一人の男を指差して、この方こそ私たちを救うメシアなのだと宣べ伝えてきたのです。それが世の人々にはつまずきであったり、愚かに見えることを承知の上で、それでもなお十字架にこだわり続けたのです。十字架につけられたキリストを宣べ伝えることにこだわり続けたのです。
今日の第2朗読でパウロも言っていました。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1コリント1:22-24)。
そのような「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」が宣べ伝えられて、二千年間も宣べ伝えられ続けて、エルサレムから遠く離れた日本にいる私たちが「十字架につけられたキリスト」のことを聞いています。そのこと自体、まさに神の御業としか言えない驚くべきことです。それは十字架の言葉が、事実、救いをもたらす神の力であり、神の力であり続けてきたことを示していると言えるでしょう。その意味において、宣教は人間の言葉をもってなされますが、その主体は神ご自身であると言えます。パウロも言っているように、「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(1コリント1:21)。
そのような神の御業の中に、今、私たちは置かれているのです。私たちは神に呼び集められた者として、「召された者」として、マタイによる福音書の言葉を聞きました。私たちが「召された者」として耳を傾けるならば、それは確かに「召された者には、神の力、神の知恵であるキリスト」に他ならないのです。
裁きの日の到来
私たちが今日耳にしたのは45節からでした。「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(45-46節)。
かつてアモスという預言者が、神の裁きの日について、次のように預言しました。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8・9‐10)。
「その日が来る」とアモスは告げました。そして、「その日が来たのだ」と新約聖書は伝えているのです。「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と。エルサレムに十字架が立てられたあの日、まさに神の裁きの日が到来したのです。神が白昼に大地を闇とする日、そして、神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変えられる日、裁きの日が、ついに到来したのです。
しかし、地上に神の裁きが行われる主の日が到来したにもかかわらず、現実に起こったことは、アモスの預言の通りではありませんでした。地上の人々は嘆きの歌など口にしていなかったのです――たった一人を除いては。神に見捨てられて嘆きの歌を口にしていたのは、ただ一人、十字架の上のキリストだけでした。あの御方だけが大声でこう叫んでおられたのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明されています。そのように、ただキリストだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、苦悩の叫びを上げておられたのです。
他の人々は、主の日が到来し、神の裁きが地上に行われているなどと夢にも思ってはおりませんでした。ある人は言いました。「この人はエリヤを呼んでいる」と。他の人は言いました。「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。そのように、本来神の裁きを受けるはずであった地上のすべての人々は、まったく気づかない。そのような人々のただ中で、本来裁かれるはずのない罪なき方が、まるで避雷針のように、すべての人に代わって神の裁きを身に受けておられたのです。キリストは神の怒りを、受けるべき杯として、ただ一人で飲み干しておられたのです。
こうしてただ一人苦難を受けられたイエスは、最後に大声で叫び、息を引き取られたました。十字架につけられた者は、次第に衰弱して死んでゆくものです。ですから、キリストの最期の姿は、自然な死に様ではありません。その姿は明らかに、何か特別なことが起こっていることを示していました。
キリストの死において起こったこと
それは何であるのか。聖書は「そのとき」(51節)という言葉をもって、二つのことを語り始めます。「そのとき」というのは、「すると、見よ!」というのが直訳です。そこで起こっていることに、私たちの注意を促しているのです。「見よ!」という言葉で指し示されているのは、二つの異常な出来事です。もちろん、マタイは、単に事柄の異常さに注目させようとしているのではありません。大事なのは、それが何を示しているのかということです。
まずそこに語られているのは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たということです。
「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には通常誰も入ることができません。ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることが許されています。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。贖いの血を携えなければ通ることができない神殿の垂れ幕は、神と人間との隔てを象徴しています。人間には罪があるゆえに、罪の贖いの犠牲なくしては聖なる神に近づくことはできない。そのことを意味する垂れ幕です。
しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれているのです。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。ですから「上から下まで」と書かれているのです。人間が裂いたら「下から上まで」となるでしょう。あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いたのです。
なぜでしょう。もはや隔ては必要がなくなったからです。もはや神に近づくために、罪の贖いが繰り返される必要はなくなったからです。というのも、この地上において最後の犠牲が屠られたからです。この世の罪を完全に贖う真の犠牲が屠られたからです。この犠牲のゆえに、人が罪を赦された者として神に近づく道が開かれたのです。その道が神の御手によって開かれたのです。
そして、さらに次のように続きます。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51‐52節)。
私たちの目に大地は動かざるものと映ります。人間はその確かさの上に家を建て、町を築きます。しかし、大地は決して動かざるものではありません。地震が起これば揺れ動きます。そして、決して裂けるとは思えなかった岩が裂けるのです。キリストの死において始まったのは、まさにそのような出来事でした。最も確かに思えたものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。
人間にとって最も確かなことは何か。それは人間が「死ぬ」ということでしょう。死の支配ほど確かなものはありません。死の中に閉じこめられない者は誰もいません。墓に入った者は、二度と外に出てくることはありません。それが最も確かなことです。そうです、確かなことであったはずでした。しかし、その最も確かなものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。死の支配が打ち壊されたのです。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」という描写が指し示しているのはそういうことです。
そして、既に見てきたように、墓が開かれたことは、神殿の垂れ幕が裂かれたことと共に記されているのです。この二つは切り離すことができないのです。人間と神との間にある垂れ幕は引き裂かれ、隔ては取り除かれました。それゆえに、死はもはや人間を支配することはできないのです。人が神と共にある時、もはや死はその人を支配することはできないのです。
その全ては十字架において、十字架につけられたキリストにおいて、この世に起こったことでした。そして、今、信仰によって、召された私たちに起こっていることなのです。私たちは今、神との間の隔てを完全に取り除かれた者として、神の御前に集められているのです。礼拝堂に集まっている私たちも、今、祈りにおいて神の御前に集っている人たちも、皆共に、隔てを完全に取り除かれた者として、神の御前に出て礼拝をささげているのです。そして、死の支配から完全に解放された者として、代々の聖徒たちと共に、神の御前において礼拝をささげているのです。そのすべては十字架につけられたキリストによるのです。
(祈り)
2021年3月28日日曜日
「十字架につけられたキリスト」
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