ミカ4:1-3
追いやられ、遠く連れ去られた人々へ
本日の第一朗読は「終わりの日」という言葉から始まりました。「終わりの日」という言葉から連想されるのは「世の終わり」でしょう。そして、多くの人が「世の終わり」と聞いて思い描くのは世界の破局であろうと思います。しかし、今日朗読された箇所に語られているのは破局ではありません。明らかに「終わりの日」という言葉は、全く異なった意味合いで用いられているのです。それは新しい時の始まりです。
本日の第一朗読は「終わりの日」という言葉から始まりました。「終わりの日」という言葉から連想されるのは「世の終わり」でしょう。そして、多くの人が「世の終わり」と聞いて思い描くのは世界の破局であろうと思います。しかし、今日朗読された箇所に語られているのは破局ではありません。明らかに「終わりの日」という言葉は、全く異なった意味合いで用いられているのです。それは新しい時の始まりです。
それゆえに、今日の箇所の後には、「その日が来れば」(6節)という言葉も語られることになるのです。新しいことが始まるからです。しかも、それを言っているのは人間ではありません。「その日が来れば、と主は言われる」と書かれていますでしょう。人間ではなく主御自身が全く新しいことを始められるということです。そこにこそ、私たちの希望があるのです。
さて、今日朗読された1節から3節の言葉を、もともと耳にしていたのは、どのような人たちだったのでしょうか。先ほど読みました「その日が来れば」ということについて、こう書かれています。「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、わたしは足の萎えた者を、残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに、主が彼らの上に王となられる」(6‐7節)。
「その日が来れば…追いやられた者を呼び寄せる」と主は言われます。その「追いやられた者」は、「遠く連れ去られた者」とも表現されています。そこには加えて「わたしは彼らを災いに遭わせた」とあります。彼らは神の裁きを経験した人々だということです。神の裁きを経験し、追いやられ、遠く連れ去られた人々。それは、紀元前6世紀にユダ王国が滅亡した時、バビロンに捕らえ移され、捕囚となった人々のことです。その捕囚民が、象徴的に「足の萎えた者」と表現されているのです。この預言の言葉は、もともとはそのような人々が聞いた言葉なのです。
それはこの直前の3章を読むとよくわかります。3章にはエルサレムに対する裁きの預言が語られています。預言者イザヤとほとんど同じ時期に活動していた預言者ミカが、特に政治的指導者たちや宗教的指導者たちに向けて語った裁きの預言です。その一部分をお読みしますのでお聞きください。「聞け、このことを。ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ、流血をもってシオンを、不正をもってエルサレムを建てる者たちよ。頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。『主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない』と」(3:9‐11)。
まだユダ王国が滅びるなどと、人々が夢にも思っていなかった時代です。エルサレムはまだ王国の都として栄えていました。神殿も存在していました。政治的宗教的な体制も揺らぐことなく存在していました。しかし、そこに語られているように、指導者たちは主の御心にではなく、自分の利益にしか関心がありませんでした。それでも宗教的な儀式だけは滞りなく行われていますから、それで安心しきっているのです。「主が我らの中におられるではないか、災いが我々に及ぶことはない」と。
それゆえミカは神の裁きを宣告するのです。「それゆえ、お前たちのゆえにシオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」(3:12)。それはもちろん立ち帰るようにとの神の呼びかけでもあります。初めから滅ぼすつもりなら、このようなことを語る必要もないのですから。それは宗教的な儀式の中に安住している、神に背いた人々への呼びかけなのです。しかし、彼らはその呼びかけに応えることはありませんでした。かくしてミカの預言の言葉は実現することとなりました。やがてエルサレムは破壊され、神殿は焼き払われ、ユダ王国は滅亡したのです。エルサレムの指導者たちをはじめ、主だった人々はバビロンに捕らえ移されていきました。
その日が来れば すべては人間の罪が自らにもたらした結果に他なりませんでした。神に背いてきたのですから、神に見捨てられたとしても仕方がないのでしょう。しかし、そのような捕囚の民が耳にしたのは、神の憐れみと救いの言葉だったのです。それが今日読まれたこの聖書の言葉なのです。本来ならば聞くことができないはずの、恵みの言葉です。
とはいえ、捕囚となった人々にとって、この恵みの言葉は、目にしている現実とはあまりにもかけ離れた言葉に聞こえたに違いありません。「主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」(1節)と主は言われます。しかし、現実には「主の神殿の山」はもうないのです。神殿がないのですから。「山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」とありますが、現実にはどの山々よりも惨めな状態にあるのです。
さらには「もろもろの民は大河のようにそこに向かい多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と」(1‐2節)と書かれています。諸国の人々が主を求めてエルサレムに集まってくると言うのです。実際に起こっていることは、まさにその正反対です。イスラエルがその罪のゆえに、諸国民の間に散らされてしまっているのです。
実は今日お読みした1節から3節は、ほとんど同じ形でイザヤ書2章に出てくるのです。つまりこの言葉は直接彼らに語られた言葉というよりは、伝えられてきた言葉だということです。ですから同じ言葉が別の経路で伝えられてイザヤ書の中にも残っているわけです。伝えられてきた言葉なら、簡単に捨てられることもあり得るのでしょう。「バカバカしい。こんな現実離れした言葉が何の役に立つか!」そのようにして、この預言の言葉が歴史の中に消えていったとしても不思議ではありません。しかし、彼らはこの御言葉を捨てなかったのです。神の言葉として、彼らの内に留めたのです。だからこうしてミカ書に残っているのです。
彼らはどうして「バカバカしい」と言って捨ててしまわなかったのか。それは冒頭にある「終わりの日に」という言葉の故なのです。考えてみてください。「終わりの日に」と語られるということは、「まだ終わりではない」ということです。「今はまだ途中である」ということです。確かに神の約束からは、全くかけ離れた現実を見ています。いまだ惨めな状態にあるのです。しかし、それはまだ途中なのです。結論ではないのです。まだ終わってはいない。今はまだ途中だということを彼らは受け止めたのです。そして、そのように今が途中であることを認めて前に目を向けてこそ、途中である今をどう生きたらよいかも見えてくるのです。
5節にはこう書かれています。「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む」。それが彼らの目にしているこの世の現実です。もろもろの民は大河のように主の山に向かう、ということは起こっていないのです。だから「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」ということも実現していないのです。しかし、途中であるならばそれでもよいのです。その時に大事なことは何か。先の言葉はこう続きます。「我々は、とこしえに我らの神、主の御名によって歩む」。
追いやられたところで、遠く連れ去られたところで、とにかく彼らは「主の御名によって」歩んでいくのです。問題は周りがどうであるかではありません。自分がどう歩んでいるかなのです。自分と主との関係がどうなっているかということこそ、問わなくてはならない。そのように主の御名によって歩むなら、主御自身が希望を語ってくださるのです。「その日が来れば」と。
さて、「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる」(6節)と語られていた「その日」は来たのでしょうか。捕囚となった人々は、紀元前6世紀後半にはエルサレムへの帰還を許され、神殿を建て直すことができました。その意味では実現したとも言えます。しかし、このミカ書の言葉が聖書に残されて、こうして繰り返し今も読まれているということは、まだ「終わりの日に」というその「終わり」は来ていないということでもあるのでしょう。
まだ終わってはいない。今なお途中であるということについては、私たちにしても同じなのです。私たちが目にしているこの世界は救いが完成した世界ではありません。第2朗読では「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう」(ヘブライ12:29)と書かれていました。しかし、私たちはその御国をまだ見ていないのです。私たちはこの世において、苦しみ悩みながら、バビロン捕囚民のように耐え忍ばなくてはならないという現実は、確かにあるのでしょう。私たちは御国を見るまでは、これからも幾度となく涙を流さなくてはならないのでしょう。
しかし、私たちは、既に神の憐れみと救いの言葉を聞いているのです。イエス・キリストという御方によって、その十字架と復活を通して、神は既に決定的な仕方で、お語りくださったからです。神は私たちにも終わりの日を指し示し、「その日が来れば!」と語ってくださる神なのです。私たちは確かにその途上にあるのです。ならば大事なことは、その途上の今をどう生きるのかということなのでしょう。「我々は、とこしえに、我らの神、主の御名によって歩む」。これは私たちの言葉でもあるのです。
(祈り)