2020年7月5日日曜日

「キリストはわたしたちの平和」

エフェソの信徒への手紙 2:11‐22

敵意という隔ての壁
 「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(14節)。今日お読みしたパウロの手紙にそう書かれていました。その意味合いは、「他ならぬキリストこそがわたしたちの平和だ」ということです。すなわち、キリストなくしては、私たちは平和であり得ない、ということです。

 そのすぐ後に「二つのもの」という言葉がでてきます。15節には「双方」と書かれていますし、16節には「両者」と書かれています。「わたしたち」の中に「二つのもの」があるのです。それはもともと平和であり得ない、相容れない「二つのもの」です。パウロの時代において、その「二つのもの」とは、具体的にはユダヤ人と異邦人のことでした。

 イエス様はユダヤ人でした。最初の弟子たちも皆、ユダヤ人でした。最初の教会はユダヤ人によって構成されていました。しかし、やがて異邦人に福音が伝えられるようになりました。信じた異邦人が教会に加わるようになりました。そのようにして、教会にはユダヤ人がおり異邦人がいたのです。その両者が共に礼拝を捧げていたのです。その両者が共に聖餐にあずかっていたのです。その両者が共に祈り、共にキリストを宣べ伝えていたのです。

 「共に」と事も無げに言いましたが、実際にはそう簡単ではなかったことは容易に想像できます。いわば「ユダヤ人」と「異邦人」とは、共に生きることのできない者たちを代表しているとさえ言えるからです。「敵意という隔ての壁」と書かれていました。実際、互いの間の敵意は一般社会に厳然として存在していたのです。

 その「敵意という隔ての壁」がどれほど高かったのか。その隔てを象徴的に表しているのはエルサレムの神殿にあった「隔ての壁」でした。神殿において異邦人が入ることができるのは、「異邦人の庭」と呼ばれているところまでで、その壁には「この中に立ち入る異邦人は死罪にあたる」と書かれた板がはめ込まれていたと言われます。それが「敵意という隔ての壁」という言葉の背景です。

 異邦人は汚れたものであって触れるならば自らが汚れる。異邦人は地獄の火を燃やす薪となるために造られた。――それは敬虔なユダヤ人の一般的な理解でした。もちろん、そのような差別と敵意は双方から起こるものです。自分たちを汚れた者と見なすユダヤ人たちを、異邦人もまた忌み嫌ったことでしょう。異邦人であるローマ人が支配する社会でのことであり、ユダヤ人は社会的にはマイノリティですから、実際には差別の対象とされるのはユダヤ人の側です。

 そのようにもともと敵意という隔ての壁によって分けられていた「二つのもの」が初めの頃から教会の中には存在していたのです。また、ユダヤ人と異邦人だけでなく、その他にも様々な形で相容れない「二つのもの」が共存していたことでしょう。それはある意味では必然であったと言えます。教会はギリシア語では「エクレシア」と言います。それは「呼び集められた者」という意味です。神が呼び集められるのです。人間が自分の好みに従って集まったのではなく、神が呼び集められたのなら、そこに相容れない「二つのもの」が存在していたとしても不思議ではありません。

 それは頭では理解できる事なのでしょう。しかし、心がついて来られるとはかぎりません。感覚的な事柄は実にやっかいです。15節には「規則と戒律ずくめの律法」という言葉がでてきました。規則にせよ戒律にせよ、それは正しさの基準です。そして、人間にとって正しさの基準というのは、単純に知的な理解の範疇にはありません。人はその中に生活しているのであって、いわば心と体に染みこんでいるのです。そして、その心と体に染み込んだ正しさの基準がしばしば人と人とを分断することになるのです。

 例えば、ユダヤ人にとって豚は汚れた動物であり、豚を食べることは律法違反です。それは「悪」なのです。そして、それを悪とみなす正しさの基準は心と体に染みこんでいるのです。ですから、やはり豚を平気で食べてきた異邦人は嫌いなのです。もちろん、異邦人には異邦人で自分たちの正しさの基準があるのでしょう。自分たちがこれまで生きてくる中で染みこんでいると言えるような正しさの基準がある。それからするとやはりユダヤ人は嫌いなのでしょう。それは極めて感覚的な問題であったに違いない。ですから、ユダヤ人と異邦人が一つの教会を形作るということは、実際的には極めて困難なことだったはずなのです。

キリストはわたしたちの平和 だからこそパウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と言うのです。他ならぬキリストこそがわたしたちの平和なのだ、と。ただお互いに向き合って、お互いに言葉を交わして、お互いを理解して、共に時間を過ごして、それで一つになれるならばこのようなことは言わないのです。どんなに時間をかけてお互いに向き合っても、それだけではどうにもならないことはある。それこそ感覚的にお互い相容れないという人々が存在していたとしても不思議ではないのが教会なのです。逆に言えば「実に、キリストはわたしたちの平和であります」などと言わなくても、なんの葛藤もなく、お互い相容れることのできる人だけが集まっている教会ならば、教会としては「何かおかしい」と思わなくてはならないのでしょう。

 ではなぜ「キリスト」こそが「わたしたちの平和」なのでしょう。パウロは、キリストが二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊してくださったからだと言うのです。「御自分の肉において」とありますが、キリストが肉においてしてくださったこと、それは最終的には十字架におかかりくださったということです。そのことによって敵意という隔ての壁を取り壊してくださった。ですから16節でははっきりと「十字架によって」と言っています。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(16節)。

 そこには「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」と書かれています。「十字架を通して《両者を》互いに和解させてくださった」とは言っていないのです。両者は《神と》和解させていただいたのです。「神と和解させていただいた」とは、言い換えるならば「神に赦していただいた」ということです。両者は「神に赦していただいた」のです。ユダヤ人も異邦人も神に赦していただいたのです。彼らはどちらも、自分の正しさを振りかざせる者ではなく、赦していただいた者として、共に神の御前にあるのです。正しさを主張し続ける「二つのもの」は決して和解することはできません。しかし、その正しさが根底から覆されるとき、人と人との和解もまた実現していくのです。

 これがキリストの「敵意という隔ての壁」の取り壊し方でした。そして、事実キリストは十字架において、敵意という隔ての壁を取り壊してくださったのです。そして、十字架において実現したことが、教会において目に見える形となることを求めておられるのです。ですから17節以下にはこう書かれています。「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方のものが一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(17‐18節)。

 「キリストはおいでになり」と書かれていますが、実際にエフェソの人たちに最初に福音を告げ知らせたのはパウロなのでしょう。あるいは後の教会の人々が福音を告げ知らせてくれたのでしょう。しかし、パウロは言うのです。キリストがおいでになったのだ。そして、平和の福音を告げ知らせてくださったのだ、と。イエス様が来てくださって、ユダヤ人と異邦人が共に礼拝を献げ、共に父なる神に近づくことができるようにしてくださったのだ、と。

 私はこの箇所を読むと、こんな情景が心に浮かんでくるのです。ここに互いに相容れない二人がいる。感覚的にお互いが嫌いなのです。しかし、そこにイエス様がおいでくださる。そして、その両方にイエス様が平和の福音を一生懸命に語り聞かせてくださる。そして、イエス様は十字架の釘跡のある一方の手で一人の手を取り、もう一方の手でもう一人の手を取って父なる神様に向かわせてくださるのです。そして言われるのです。「父よ、彼らをお赦しください」と。そのように父なる神に執り成しながら、共に礼拝をさせてくださる。それがかつてユダヤ人と異邦人のいる教会に起こったことであり、今ここにいる私たちに起こっていることなのです。

 この世界は今日もなお、敵意という隔ての壁によって分断された世界です。コロナウイルスによって、この世界が分断された世界であることがいよいよはっきりと現れてきているとも言えます。そのような世界の中にあって、私たちがただお互いにのみ目を向け合っているところに真の平和はありません。キリストこそが私たちの平和です。キリストによって罪を赦された者として、共に神を仰ぐところにこそ、真の平和はあるのです。その平和が、まずここにいる私たちの間において目に見える形をとって実現していきますように。
(祈り)

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