2020年6月14日日曜日

「主の名を呼ぶ者は誰でも救われる」

ローマ10:5‐13

律法による義、信仰による義
 「掟を守る人は掟によって生きる」(5節)。パウロが引用していますように、確かに旧約聖書にそう書かれています。レビ記18章5節からの引用です。「生きる」というのは、神との交わりにあって神の命に与ることです。真に人が「生きる」というのは、神との交わりによるのであって、それは神の掟を守ることによって得られると確かに旧約聖書は語っています。これを「律法による義」といいます。律法によって得られる神との関係です。

 イスラエルの人々が掟を守ることによって義を得、命を得ようとしたのは、確かにそのような聖書の言葉に基づいてのことであったに違いありません。そして、彼らは真剣にこのことを努めたのです。しかし、本当に努力した時に、ある人は気づくことになる。神に従順に生きようとすれば、人間がいかに罪深く、いかに神に対して不従順であるかを知ることになる。人間が自分の行いによって義に至るということは、まさに自力で天にまで上っていくようなものだと気づくのです。
 
 多くの敬虔な人々が、律法を守る努力をしていながらも、いかに救いについて不確かであったかは、イエス様のもとを尋ねてきた人々の言葉からも伺い知れます。幼い頃から律法は遵守してきたと自負する青年がいました。しかし、彼は主にこう尋ねたのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。神との正しい関係なくして永遠の命はないことは分かっている。そして、神との正しい関係を築くのは、やはり人間の行いによるのだと思っている。しかし、真面目に考える人は気づくのです。それは自力で天にまで上るようなことだと。パウロもまたそのような一人だったようです。

 しかし、6節でパウロはこう続けます。「しかし、信仰による義については、こう述べられています。」これは直訳すると「信仰による義がこう言っている」と書いてあるのです。「律法による義」ではなくて、「信仰による義」が私たちに向かって言っているのです。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」と。

 頑張って天にまで上ろうとしなくていい。それはなぜか。私たちのために、キリストが降ってきてくださったからです。それはキリストがしてくださったことです。私たちは何もしていません。私たちが天にまで上ろうとするのは、すべてキリストがしてくださったことを否定するようなことです。私たちが自分の力でキリストを地上にまで引き降ろしたと言うに等しいのです。

 また信仰の義はこうも言っています。「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」私たちは神との関係を築くために、一生懸命に苦難を背負って底なしの淵にまで下っていこうとしなくてよいのです。なぜなら、キリストご自身が苦難の道をたどって陰府にまで、最も深い暗闇の中にまで下ってくださったからであり、神が御自らキリストを死者の中から引き上げ、復活させられたからです。人間は何もしませんでした。神が成し遂げられたのです。私たちが陰府にまで降っていこうとするのは、すべて神がしてくださったことを否定するようなことです。それは私たちがキリストを死者の中から引き上げたと言うに等しいのです。

 要するに、少々分かりにくい表現ではありますが、「信仰の義」が言っているのは「すべて神がしてくださった」ということです。神との正しい関わりは人間が造り出すのではなく、神が与えてくださるのです。それが「信仰による義」です。人間は信仰によって受けるだけなのです。

あなたの口、あなたの心にある それゆえ、このように語られています。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」そうです。救いの言葉は、近くにあるのです。どこにでしょう。福音が宣べ伝えられているところにです。信仰の言葉が語られているところにです。御言葉は近くにあります。後は、あなたの口にあり、あなたの心にあればよいのです。そこに「信仰による義」もまたあるのです。

 では、信仰の言葉が「口にあり心にある」とは、具体的にどういうことでしょうか。9節以下にはこう書かれています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(9‐10節)。

 心と口が関わっているのです。しかし、一般的に「信仰」と言われます時、それは心にしか関わっていないものと理解されているのではないでしょうか。心で「信じる」のですから、それで十分であると。しかし、パウロが信仰と言うとき、それは単に「心」にだけではなく、「口」にも関係しているのです。

 いや、さらに言うならば、「心で信じる」ということと「口で公に言い表す」ということは一つのこととして語られているのです。別々のことではないのです。信じてから言い表すのでもなければ、言い表していることを信じるようになるのでもないのです。それは9節と10節で順序が違っていることからも分かります。9節では「言い表し、信じる」。10節では「信じて、言い表す」。別々のことでしたら、これは成り立ちません。

 「口でイエスは主であると公に言い表し」と言われています。「イエスは主である」という言葉は、私たちが礼拝で唱えている使徒信条のようなものが出来る前にあった、初めの頃の信仰告白の表現です。「イエスは主である」。――この言葉の根拠は、イエスの復活です。神はこのお方の死をもって私たちの罪を贖われ、この御方を復活させて、私たちが信ずべき主としてくださいました。このお方において、私たちの救いに必要なすべては成し遂げられました。それゆえに私たちは「イエスは主である」と言い表して、イエスを主として生きていくのです。

 そこで大事なことは、「「口で公に言い表し」ということです。「公に言い表す」という言葉は、しばしば「告白する」とも訳されますが、実はこの言葉の元の意味は「同じことを言う」という意味なのです。教会が信仰の言葉を伝えます。そして、伝えられた人が、代々の教会と同じことを共に口で言い表すのです。そのようにして、代々の教会の信仰の中に身を置くのです。そのように「告白すること」と「心に信じる」ということとが一つとなっているのが、聖書の語るところの信仰に他ならないのです。

 そのように代々の教会が宣べ伝えてきた信仰の言葉が「あなたの口、あなたの心にある」ということが大切なのです。そして、そのように主を信じ、「イエスは主である」と告白して生きる者は、誰も失望することはない、と約束されています。なぜなら、その人には「信仰による義」が与えられているからです。


 私たちは今日、この礼拝堂に集まって礼拝をささげています。ここに集まることができるのはまだ少人数です。他の多くの人は、今同じ時間に、祈りによってこの礼拝とつながって、それぞれ礼拝をささげています。今日、礼拝堂における礼拝においては、かつてのように声高らかに讃美歌を歌うことはできませんでした。教会に滞在することのできる時間も短く、礼拝後に歓談することもできません。宗教的な欲求を含め、様々な欲求の満たしを求めて集まったのなら、少し物足りないということになるかもしれません。

 しかし、本当はそんなことよりも遥かに大きく、とてつもなく重要なことが、今目に見える形で起こっているのです。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と語られていたことが、現に今ここに起こっているのです。私たちが今、ここに体験しているのは、神の救いの目に見える現れなのです。

 それゆえに、続く12節以下もまた、私たち自身のこととして聴くことができるのです。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ10:12-13)。そうです。これは私たちのことを言っているのです。
(祈り)

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