2020年6月21日日曜日

「神の求めておられる正しさとは何か」

ハバクク書2:1-4

 預言者ハバククは言います。「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」(1節)。歩哨とは見張りの兵士です。砦の上に立って見張っているのです。敵から町を守るため、僅かな変化も見逃さないように、小さな兆しをも見逃さないように、目を凝らして、全神経を集中させて、歩哨は砦の上に立って見張ります。

 そのような見張りに立つ兵士のように、全神経を集中させて、ハバククは神の言葉を聞こうとしているのです。神の答えを見ようとしているのです。神はわたしに何を語ってくださるのか。わたしが訴えて祈ったことについて、神はどのように答えてくださるのか。絶対に聞き逃さないように、絶対に見逃さないように、彼はひたすら神の言葉を、神の答えを待ち望むのです。

主よ、いつまで
 このハバククという預言者についてはほとんど何も知られておりません。ただハバクク書の内容から、紀元前600年頃に活動した預言者であることは分かります。ユダ王国が滅亡へと向かっていた時代です。今日はそのような背景を持つハバクク書を途中からお読みしました。実はこの書物、こんな嘆きの言葉から始まるのです。

 「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに、あなたは助けてくださらない」(1:2)。

 「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」という言葉から、ハバククが長い間祈り続けていたことがわかります。単に個人的な助けを求めていたわけではありません。この社会における「不法」について神に訴えていたのです。御心に反することが行われているからです。

 かつてユダの国にはヨシヤという王がいました。神に従う、敬虔な名君でした。ヨシヤの時代に、宗教改革が行われました。この改革は国内に良き秩序の回復をもたらしました。失われていた正義が回復されていきました。世を憂いていた人々は皆、ヨシヤの改革に期待していました。輝かしい時代の到来を信じていました。しかし、そのヨシヤが志半ばにして死んでしまいました。ひとつの時代が終わりました。そして、そこから崩壊が始まりました。

 先ほどの、ハバククの嘆きの言葉はこう続きます。お聞きください。「どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(1:3‐4)。

 ヨシヤの跡継ぎとなったのは息子のヨアハズでした。しかし、この王は当時の超大国であったエジプトの権力によって三ヶ月ですげ替えられました。代わりに立てられたのはヨヤキムという王でした。ヨヤキムの時代は、まさにこの預言者の言葉どおりの時代でした。支配者層による弱者の抑圧、果てしなく繰り広げられている争いと暴力。「神に逆らう者が正しい人を取り囲む」と書かれています。正しい人は圧倒的少数でした。だから、力によって正義が曲げられてしまうのです。

 ユダの国がそのような正しさのない状態にあることをハバククは神に訴えてきました。だからこそ、嘆きもまたあるのです。「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」。それは、ある意味で、神の正しさを問う嘆きでもあるのでしょう。正しさの失われている状態を野放しにして、訴えているのに何もしてくれない。神は本当に正しいのか、という問が生まれます。それはハバククでなくても、社会のありようを見て、今日の私たちも感じていることかもしれません。神は本当に正しいのか。

わたしはカルデア人を起こす
 そんなハバククに主は一つの答えを与えられました。そして、神の答えはハバククのまったく予期していなかったものでした。主は言われたのです。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する」(1:6)。

 「カルデア人」とは当時にわかに東方から勢力を強めてきたバビロニア帝国のことです。オリエントの覇権がアッシリアからエジプトへ、さらにバビロニアへと移っていった時代です。神はそのバビロニアが攻めてくると告げたのです。現実にバビロニアは周辺諸国を占領して勢力を拡大し、迫ってきていました。国内の混乱に加えて外国の襲来です。事態はさらに悪くなりつつありました。それが神のなさろうとしていたことだと、ハバククは知らされたのです。

 ある意味で、それは神の正しい裁きであり、正しい懲らしめであるとハバククは理解しました。彼はこう言っています。「主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため彼らを立てられた」(1:12)。しかし、それで単純に納得できたかと言えば、そうではありません。現実に目に映っているのは、バビロニア軍という、より大きな力による暴虐ですから。今日は細かく見ることはできませんが、ハバクク書を読みますと、彼の内に根源的な問いが残っていることがよく分かります。――神は正しいのか。

 神が正義の神であるとするならば、この世において目にすることは実に不可解です。神が正しい御方であるならば、なぜこんなことが起こるのか。なぜこんなことが許されるのか。そう問わざるを得ないことは、いくらでもあるのでしょう。それはハバククの時代も現代も同じです。そこで「神も仏もあるものか」と言う人はいるのでしょう。もう神など信じないと口にする人もいるのでしょう。

 しかし、そこでハバククは神に背を向けないのです。彼はこう言うのです。「わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」。見張りに立つ兵士のように、全神経を集中させて、神の言葉を聞こうとするのです。神の答えを見ようとするのです。神はわたしに何を語ってくださるのか。神はどのように答えてくださるのか。絶対に聞き逃さないように、絶対に見逃さないように、彼はひたすら神の言葉を、神の答えを待ち望むのです。

正しい人は信仰によって生きる
 そんなハバククに主は言われました。「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる』」(2:2‐4)。

 この「幻」とは、その後に書かれているように、神によって「定められた時」「終わりの時」に向かっている神の御計画です。最終的な救いに向かっている神の御計画です。神の救いの約束であり、神が与えてくださっている希望です。それを書き記せ、というのです。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと大きく書き記せ、というのです。

 それはなぜでしょうか。それは神の約束は確実に終わりの時に向かって進んでいるからです。人間の目には、全く進んでいないように見えるかもしれない。むしろ逆行しているようにさえ見えることがあるかもしれません。しかし、「そうではない!」と神は言われるのです。それは「定められた時」「終わりの時」すなわち救いの完成の時に向かってまっしぐらに進んでいるのだ、と。

 それならば、人のなすべきことは、信じて「待つこと」です。信頼して待つことなのです。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」そして、主は言われるのです。「神に従う人は信仰によって生きる」と。

 「神に従う人」と訳されている言葉は直訳すると「正しい人」です。「正しい人は信仰によって生きる」と書かれているのです。これまで見てきたように、ハバククが問題にしていたのは「正しさ」でした。最終的に残る根源的な問いは、神は正しいのか、ということだったのです。しかし、本当は神の御前にある時、私たちは神に正しさを問う側ではなく、神から正しさを問われる側にいるのでしょう。「そう言っているあなたは本当に正しいのか」と。

 神は今、ハバクク自身に、「正しい人」であることを求められるのです。神の求めておられる正しさとは何か。神が望んでおられる「正しい人」とはどのような人なのか。それは信仰によって生きる人だというのです。すなわち、どこまでも神とその真実に信頼して生きる人なのです。その正しさを主はハバククに求められました。そして、ここにいる私たちにも求めておられるのです。「正しい人は信仰によって生きる」と。

(祈り)

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