2020年5月17日日曜日

「神の愛から引き離されることはない」

ローマの信徒への手紙8:28‐39

神はわたしの味方である
 「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)。そうパウロは言います。

 もし神がわたしたちの味方であるならば――。これは事実に反する仮定ではありません。言わんとしていることは「神がわたしたちの味方なのだから」ということです。そして、この手紙において明らかにされているように、その根拠はキリストにあります。神が、この歴史においてただ一度、決定的に、ご自身の愛を現わしてくださった出来事に、その根拠を見ているのです。それは続けて32節に書かれているように、神が「わたしたちすべてのために、御子をさえ惜しまず死に渡された」という出来事です。

 パウロがこの表現を用いる背景には、旧約聖書における一つの物語があります。それは、アブラハムが自分の子であるイサクを神に捧げたという物語です(創世記22章)。アブラハムは神の言葉に従い、モリヤの山にイサクを連れて行き、祭壇を築き、焼き尽くす献げ物として捧げるために息子を屠ろうとしました。まさにその時、神はアブラハムを止められ、こう言われたのです。「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」歴代誌の記述によれば、このモリヤの山はエルサレムの神殿のあるシオンの山を指します(歴代下3:1)。その同じエルサレムにおいて、今度は神御自身が独り子を惜しまず、私たちのために死に渡されたのでした。その事実のゆえに、ただその一事のゆえに、パウロは「神がわたしたちの味方なのだから」と言うのです。

 根拠はキリストである。それ以外ではない。――それはどれほど強調しても強調し過ぎることはありません。というのも、私たちはしばしばキリストから目を逸らし、他のところに根拠を求めようとするからです。私の願いが叶ったか、叶わないか。私の苦しみが解決されたか、されないか。癒されたか、癒されないか。そこにしか目が向かなければ、自分の願い通りになれば「神様は私の味方だ」と言い、願い通りにならなければ「神様は私に敵対しているのだ」と言うようになるのでしょう。しかし、パウロが目を向けているのは、そのような目の前のことではないのです。

 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」パウロは過去におけるキリストの出来事だけに目を向けているのではありません。同じように彼が目を向けているのは未来における救いの完成です。

 「すべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」それは私たちが神の国を受け継ぎ、神の栄光を受け、永遠の命に輝くその時を思いつつ語っている言葉でしょう。最終的な救いを得ずしては何も得ないのと同じです。しかし、神の栄光にあずかるならば、それはすべてを得ることでもあるのです。独り子を与えてくださった神から、すべてを与えられること以外、何を期待することができるでしょう。そうパウロは言っているのです。

 もちろんパウロは、終わりの日が審判の時でもあることを知らないわけではありません。この手紙の2章には次のように書かれています。「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(2:5)神は神であられるゆえに、正しく世を裁かれます。神は義を貫かれるのです。

 神の正しさの基準は神の律法です。それはただユダヤ人だけに与えられているのではありません。異邦人もこの裁きを免れないのです。なぜなら、異邦人はその心に神の正しい要求が書き記されているからです。そして、パウロは言います。「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(2:16)。ただ人の目に明らかなことだけではありません。隠れた事柄が問われるのです。

 このような審判において、私たちを訴える声が上がるでしょう。私たちの罪を指摘されるならば、恐らく、どれもこれも真実だ、と認めざるを得ない訴えであるに違いありません。私たちは抗弁できません。パウロはここで、最後の審判におけるサタンの告発を考えているのかも知れません。それがサタンであれ、誰であれ、隠れた事柄を裁かれる神の前で訴えられたら、私たちは抗弁のしようがありません。

 パウロは、このような最終的な神の審判を軽く考えはしません。しかし、それでもなお彼は言うのです。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」(33節)。パウロは、再びキリストを仰いで語ります。神が私たちのために与えてくださった独り子を仰ぐのです。その方において、私たちの罪の贖いは成し遂げられました。それゆえ、他ならぬ神が私たちを義としてくださるのです。私たちを最終的に罪に定めることのできる神が、私たちを義としてくださるのです。

 彼は続けます。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(34節)。そこには復活され、天に挙げられたキリストがおられます。神の権威の座に、キリストはおられます。その御方は、私たちを愛し、ご自身を捨てられ、私たちのために十字架にかかられ、死の苦しみを味わわれた方です。弟子たちが見たように、復活されたキリストの手には、その十字架のしるし、釘の跡がありました。復活の栄光の姿でありますのに、その手とわき腹には、十字架における死の苦しみの跡がありました。キリストが執り成してくださるとは、そのご自身の成し遂げられた御業をもって、私たちのために執り成してくださると言うことです。

何ものも神の愛から引き離せない
 それゆえ、パウロの最終的な確信は、何ものもこの愛から私たちを引き離すことはできない、ということでした。彼は言います。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(35節)。

 艱難、苦しみ、迫害…これらは人間が人間に対して為し得る事柄です。人間は苦しみを与えることができるでしょう。迫害することもできるでしょう。剣をもって殺すことさえできるでしょう。これらは、恐らくパウロ自身の経験から出た言葉であろうと思われます。彼は、最終的には命を脅かす迫害者の剣すら、受けなくてはならないかも知れないと考えているのです。それはパウロにとって、不思議なことではありませんでした。なぜなら、既に聖書に記されているからです。「『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」(36節)。

 彼がここに引用しているのは、詩編44編23節です。そこに記されているのは、信仰者の苦しみです。いや、恐らく、苦しむ信仰者の姿を聖書に求めるならば、その例は枚挙にいとまがないでしょう。もちろん、私たちはパウロと同じような迫害や艱難を経験しているわけではありません。しかし、どのようなことにせよ、キリストを信じて神の子とされることは、決して苦しみを免れることを意味しないことを、私たちもやはり聖書の言葉と実生活から、同じように知らされているのでしょう。

 しかし、パウロはそこでなお「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(37節)と宣言するのです。以前の口語訳では「勝ち得て余りがある」と訳されていました。苦難が過ぎ去ったからではありません。苦難は終わりの日まで続くでしょう。しかし、その苦難のただ中で、「勝ち得て余りあり!」と叫んでいるのです。なぜでしょうか。彼はただ一つ、揺るぎ無い事実を知っているからです。それは、だれもキリストの愛から私たちを引き離すことはできない、ということです。いかなることがあろうとも、それらは私たちを、キリストの愛の届かないところに連れ去ることはできないのです。そして、キリストの愛から引き離されないならば、その人は絶対に敗北者にはならないのです。

 そして、パウロが視野に入れているのは、ただ人間が人間に対して為し得ることだけではありません。人間を超えた力でさえ、恐れるに足りないことを示します。「天使も、支配するものも」というのは明らかに超自然的・霊的な被造物を指しています。また、その後の「現在のものも、未来のものも」は時間的な広がり、「高い所にいるものも、低い所にいるものも」は空間的な広がりを示しています。何時いかなる所のものも、ということです。そして、その先頭の「死」と「生」とが置かれています。これは要するに「死のうが生きようが、神の愛から離されることはない」ということです。これこそまさに究極の勝利宣言と言うことができるでしょう。勝ち得て余りあり!

 さて、本日の聖書箇所は28節の大変よく知られた御言葉から読み始められました。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。「万事」ですから、そこには喜ばしい事ばかりが含まれているのではありません。そこには災いとしか思えないような事、不運としか思えないような事も含まれるのでしょう。新型コロナウイルスのパンデミックによって今、私たちが経験しているすべての事もまた「万事」に含まれるのでしょう。その「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と言うのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。

 それは「万事」だけを見ていては言えないでしょう。これはいわゆる「ポジティブな考え方」ではありません。これは信仰の言葉なのです。すなわち、神との関わりにおいて初めて口にできる言葉なのです。ですから、昔の人はそれを明確にしなくてはならないと思ったのでしょう。あえて「神」という言葉を加えている写本があるのです。それゆえに、例えば「万事が益となるように神が共に働かせてくださる(God causes all things to work together for good)」という訳もあるのです。

 その背後には、既に見てきたように、この後にパウロが溢れ出る感謝と喜びをもって語る彼の確信があるのです。「神の愛から離されることはない」という確信です。死のうが生きようが、神の愛から離されることはない。ならばその神が、「万事が益となるように共に働く」ようにしてくださるのです。私たちはそのような世界に生きているのです。今も、そして永遠に。
(祈り)

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