2020年4月26日日曜日

「さあ、来て、食事をしなさい」

ヨハネによる福音書 21:1‐14

 「その後」という言葉から始まる21章に入りまして、場面はエルサレムからガリラヤのティベリアス湖畔に移ります。ペトロをはじめ、他の弟子たちは、もともと彼らがいた生活の場に戻っています。今日お読みした箇所において弟子たちがしていることは、彼らイエス様と出会う前、三年半ほど前まで、日々繰り返していたことと基本的には変わりません。ペトロが言います。「わたしは漁に行く」。他の弟子たちも言いました。「わたしたちも一緒に行こう」。そのようにして共に漁に出ます。あいにく、その夜は何も取れませんでした。大漁の日もあれば不漁の日もある。それが漁師の日常です。魚がとれないときの惨めさや虚しさ、疲れ果てて迎える朝。それもまた彼らがこれまで幾度となく味わってきたことであるに違いありません。

 表面的には三年半前と何も変わっていないように見えます。しかし、それにもかかわらず、決定的に異なることがあるのです。既にキリストが復活されたことです。そして、彼らはそのキリストの弟子であるということです。

弟子たちに現れたキリスト
 今日の聖書箇所が伝えている情景を思い描いてみましょう。朝が白々と明けてきました。イエス様が岸に立っておられます。しかし、弟子たちにはイエス様であることが分かりません。主は彼らに呼び掛けました。「子たちよ、何か食べ物があるか」。要するに「魚は捕れたか」と言っておられるのです。「捕れていません」と答える彼らに、主は言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)。彼らがその声に従って網を打ってみますと、なんと夥しい魚が網にかかりました。もはや網を引き上げることができないほどです。

 その時、「主の愛しておられたあの弟子」が言いました。「主だ!」彼は思い出したのでしょう。あの日の出来事を。――三年半ほど前のあの日も、彼らは夜通し働いて何もとれませんでした。虚しく朝を迎え、疲労困憊した彼らに、あの日イエス様は言われたのでした。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(ルカ5:4)。シモン・ペトロは言いました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」そう言って主の言葉に従って漁に出た。すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(同5:6)と書かれています。皆、この事実に驚き、恐れます。すると主はペトロにこう言われたのでした。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。

 「主だ!」と口にしたあの弟子が思い出したのは、その時のイエス様の姿であったに違いありません。いわばイエス様があの時の情景を再現して、彼らに思い出させてくださったとも言えます。そのようにして、かつて彼らを弟子として招いたキリストが、復活して今も共にいることを示してくださったのです。「主だ!」というその言葉を聞くと、ペトロは上着をまとって湖に飛び込みました。裸で主にお会いするわけにはいかないとでも思ったのでしょう。彼は二百ペキス(約90メートル)を泳いで主のもとへと急ぎました。他の者は舟で陸まで戻りました。

 そこで非常に印象的な描写が続きます。陸に上がってみると、炭火が起こしてありました。イエス様が自ら食事を準備していてくださったのです。そこには魚がのせてあり、パンもありました。そして、主は、「パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(13節)と書かれています。

 イエス様がパンを裂いて弟子たちに与えられ、魚も同じように弟子たちに分けられた時、彼らはもう一つの場面を思い起こしていたに違いありません。そう言えば、このようにイエス様がパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、私たちに分けてくださったことがあった。魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えてくださったことがあった。それは、ここ、ティベリアス湖の畔でのことだった。――そうです、キリストが五つのパンと二匹の魚を分けて群衆に食べさせられた時のことです。この福音書の6章に書かれています。あの時、人々にパンと魚を分け与えられたイエス様が、復活して弟子たちに現れ、同じようにパンと魚を分けてくださったのです。

 考えて見れば、ほんの少し前まで泥のように疲れていた彼らだったのでしょう。夜通し働いて何もとれず、ただただ疲れ果てて朝を迎えた彼らだったはずです。しかし、その彼らがイエス様と共にあって、まさに生き返っている姿を私たちはここに見ることができるのです。それは、最後の最後で大漁を得たからでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。確かに大漁は嬉しかったに違いない。しかし、それ以上にうれしかったのは、復活の主が共にいることに気付かせていただいたことではありませんか。あの弟子の「主だ!」という言葉を聞いて、ペトロもまた気付かされたのでしょう。そして、その時にはもう大漁の喜びなんて吹っ飛んでしまって、とれた魚には目もくれず、すぐに湖に飛び込み、主のもとにはせ参じたのです。

 そして、キリストは彼らと共にいることに気付かせてくださっただけではありません。主は彼らのために食事を整えていてくださっていた。それはかつてのパンの奇跡を思い起こさせる食事でありました。そう言えばあの時、人々にパンと魚を分けられた主は、次のように語られたのでした。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。彼らは確かにそこで、「命のパン」である主御自身による養いを受け、命の満たしを受けていたのです。

私たちに現れてくださるキリスト
 こうして見てきますと、ここに描き出されているのはただその時の弟子たちの姿だけでなく、後の弟子たちお姿もまたそこに重ね合わされていることに気付かされます。そこに描かれているのは、私たちの姿でもあるのです。

 20章には、弟子たちがまだエルサレムにいた時、イエス様が彼らに二度にわたって姿を現されたことが記されていました。一回目はキリストが復活された週の初めの日の夕方。二回目はそれから「八日の後」のことです。「八日の後」とは私たちの言う「一週間後」ということですから、やはり日曜日のことです。私たちはキリストの弟子たちが、後にエルサレムを本拠地とすることを知っています。初代の教会はエルサレムから始まるのです。

 しかし、ヨハネによる福音書はあえて21章を加えて、「その後」という言葉をもって三回目のイエス様の現れを語るのです。そこはエルサレムではなくてガリラヤなのです。彼らはそこで漁をしているのです。いわば彼らの日常生活の場において、主が三度目に現れてくださったことを伝えるのです。

 20章が日曜日のことを語っているとするならば、ある意味で21章は残りの六日間を語っていると言ってもよいでしょう。主の日の集まりから生活の場に戻れば、そこにはキリストを信じる前でも後でも、同じ生活があるのでしょう。初期の信徒には奴隷の身分の者が少なくありませんでした。信じる前に奴隷であったならば、信じた後にも奴隷であるわけです。日常には同じ生活が待っている。しかし、そこには決定的に異なることがあるのだと、今日の聖書箇所は言うのです。なぜならキリストは復活されたからです。

 確かに、生活の場における経験は、漁に例えるなら常に「大漁」とは限りません。いや、一晩中働いてまったく何もとれなかったあの弟子たちのように、まる一日かけてやったことが全部無駄に思える日もあるかもしれません。労苦が報われなかったり、善意が受け入れられなかったり、愛が実を結ばなかったりすることはいくらでもあるのでしょう。この世の罪や自分自身の罪との戦いにおいて疲れ果て、まさに砂を咬むような虚しさと惨めさを味わうことも、日常生活においてはいくらでもあるのでしょう。

 しかし、キリストは復活されたのです。主は生きておられます。そのキリストが呼びかけてくださるのです。「魚は捕れてるか」と。そのように、遣わされた
者としてこの世に生きる私たちの生活に目を留め、心にかけていてくださる方がそこにおられるのです。この世において私たちが経験する惨めさや虚しさもわかっていてくださる方がおられるのです。そして、主は言われるのです。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と。そのように主が私たちにも語りかけ、導いてくださるのです。

 主が語りかけ、導いてくださるのは、何も日曜日だけではありません。毎日の生活の中で、私たちは主に耳を傾け、主に導かれて生きるのです。そして、私たちは様々な場面で気付かされるのです。「主だ!」と。復活の主が確かに共にいてくださることに気付かされるのです。これは主の御業だ。主が共にいて、主がしてくださったことだ!と。その時、「主だ」と口にしたあの弟子のように、また湖に飛び込んだあのペトロのように、私たちの心は喜びに満ちあふれ、主を慕い求めるのです。

 そして、主を慕い求め、主のもとに馳せ参じるなら、命のパンである主御自身が豊かにもてなしてくださるのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と主は言われたではありませんか。そして、キリストが命の糧を豊かに与えてくださるのは、ただ主の日だけではないのです。聖餐の時だけではないのです。キリストはティベリアス湖(ガリラヤ湖)の畔で、漁師の日常生活のただ中で、炭火をおこし、魚を焼いて待っていてくださったではありませんか。

 頌栄教会は3月29日以来、礼拝堂に集まることを控えて、それぞれが自分の生活の場所で礼拝をささげることとしました。主日礼拝の場所が、半ば強制的にそれぞれの生活の場所へと移動させられたとも言えます。日曜日に教会に集まることができなくなって、かえって信仰生活の主たる場所は、教会堂の中ではなく、自分の生活の場所であることを、否が応でも認識せざるを得なくなりました。それは私たちにとって、今、本当に必要なことだったのだと思います。

 キリストは復活されました。私たちはその弟子たちとして、与えられている場において、一日一日を生きるのです。今週も、日々、生ける主の導きに気づかせていただきたい。生ける主の御業に気づかせていただきたいと切に願います。「主だ!」と口にしたあの弟子のように。そして、日々主の養いを受けて、命に溢れて仕える者でありたいと切に願います。それは、私たちの祈りであると共に、そのような生活をどのように築いていくかという私たち自身の課題がそこにあるとも言えるでしょう。

(祈り)

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