2020年4月5日日曜日

「真理とは何か」

ヨハネによる福音書 18:28‐40

妬みと偽り
 「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった」(28節前半)と書かれていました。人々はイエスを総督に訴えました。この男は悪いことをした、と言って訴えたのです。死刑に価する悪いことをした、と。ただ死刑にする権限は彼らにはありませんでした。ですからその権限を持つローマの国家権力に訴え出たのです。人々はイエスを訴えた、と言いましたが、その人々とは一般的な民衆ではありません。大祭司カイアファのところから来た人々です。すなわちその中心にいるのは宗教的な権威者たちです。

 宗教的な権威者たちがイエスを憎んで殺そうと考えるようになったのには、それなりのいきさつがありました。それは11章まで遡りますと分かります。祭司長たちとファリサイ派の人々が最高法院を召集してこう言っているのです。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(11:47‐48)。

 イエスという存在は、当時の宗教的な権威者たちにとっては、まさに脅威でした。それはそうでしょう。皆がイエスに引きつけられていったわけですから。ナザレのイエスという御方は当時の宗教的な教師たちとは全く異なる存在でした。人々はイエスを通して、宗教的な教えや戒律に触れたのではないのです。そうではなくて、神の愛のリアリティに触れたのです。それゆえに多くの人々がこの御方について行きました。

 するとどうなりますか。それまで宗教的な権威と見なされていた彼らの立場が脅かされることになります。彼らがイエスに敵意を抱いた理由の一つがここにあります。マルコによる福音書には、もっとあからさまに、「(ピラトには)祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マルコ15:10)と書かれているのです。

 しかも、人々が熱狂的にイエスに従うようになると、さらに困ったことが起こりかねません。ローマに対する反乱と見なされる可能性があるからです。もしそのようなことにでもなればローマ人たちは軍隊を送り込んでくるでしょう。彼らが「我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と危惧している事態になりかねないのです。そのように彼らは宗教的にも政治的にも脅威にさらされていたのです。

 だからこそ大祭司カイアファはこう言ったのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11:49‐50)。つまり、イエスを抹殺してしまえば済む話ではないか、と言っているのです。そして、その後にこう書かれているのです。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(同53節)。

 彼らは妬みと自己保身から一人の人間を抹殺しようとしていました。そのような彼らが、自らの正義を振りかざしてイエスを訴えている。それが今日お読みしたこの場面なのです。イエスは悪だ。自分たちは正しい。そう言って訴えているのです。実際にはそこに嘘があるわけでしょう。

 しかも皮肉なことに、こう書かれているのです。「彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」(28節後半)。彼らはイエスをなんとしてでも死刑にするためにローマの国家権力に頼りました。しかし、本心を言えばローマ人なんてイヌやブタと一緒だと思っているのです。ユダヤ人にとっては汚れた者なのです。汚れた者の住んでいるところに入れば自分が汚れてしまう。宗教的に汚れてしまうのです。だから汚れないで過ぎ越しの食事をするために、総督官邸には入らなかったのです。

 実に皮肉な描写ではありませんか。彼らは汚れることを避けているのです。しかし、他者を汚れた者と見なしながら、いかにも「われわれは清い人間だ」という顔しながら、自分の内にある醜い思い、汚れた心に気づかない。他人をイヌやブタのごとくに見下しながら、そういうことをしている自分の下劣さに気づかない。人を罪に定めながら、自分の罪に気づかない。汚れることを避けながら、本当に汚れているということがどういうことか分からない。それがここに描かれている姿です。

 しかし、これこそまさにこの世の姿なのでしょう。聖書に描かれるまでもなく、私たちは、そういった嘘で塗り固められた醜い現実を、うんざりするほど見聞きしているわけではありませんか。そして、さらにうんざりすることは何かと言えば、そうやってこの世の有り様にうんざりしている私たち自身が、まさにそのような醜いこの世の一部になっているという事実です。ここに描かれている姿は、誰か他の人々の姿などではありません。他ならぬ私たち自身の姿でもあることを私たちは良く知っているのです。

 しかし、そんな私たちに、今日の聖書箇所は何を伝えてくれていますか。そんな醜いこの世界のただ中に、うんざりするような人間の醜さのただ中に、キリストが立っておられるのです。そこに救い主が立っておられる。それが今日お読みしている場面なのです。そこでイエス様はこう宣言されるのです。「わたしの国はこの世に属していない」(36節)と。そうです。イエス様はそこで、この世に属さない、この世の一部ではない、もう一つの王国のことを語られたのです。

真理の王国
 しかし、その場面を想像してみてください。その言葉はピラトには相当滑稽に聞こえたに違いありません。それはそうでしょう。縛られて、ボロ雑巾のようにされて、殺されようとしている無力な男が、「わたしの王国」について語っているのですから。だからピラトはこう言ったのです。「それでは、やはり王なのか。」明らかにバカにして言っているのです。それに対してイエス様はお答えになりました。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と。

 細かいことを言いますと、これは「わたしが王だとは、あなたが言っているのであって、実際にはそうではない」という意味ではないのです。この世の王だと誤解されないために、こういう言い方をしているだけです。この言葉は、「わたしが王であるとは、あなたが言うとおりだ」とも訳せるのです。「わたしの王国」について語っておられたのですから、ここでもやはりイエス様は自らが王であると主張しておられると見るのが正しいのでしょう。

 しかし、イエス様は自らが王であることを語られた上で、こう続けられました。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。そのようにキリストの王国は、真理によって形づくられるのです。ならば、そこで問題となるのは何ですか。「真理とは何か」ということでしょう。ですから、ピラトも尋ねているのです。「真理とは何か」と。

 ここでいう「真理」とは「見せかけのもの」に対する「見せかけでない本物」、「嘘や偽り」に対する「嘘や偽りではないもの」を意味する言葉です。その意味では「真実」と訳すことも可能です。それゆえに、ここで語られているのは、私たちにとって、本当に身近な話なのです。なぜなら、先に見たように、私たちはうんざりするほどの嘘や偽りに満ちた世界に生きているからです。そのような世界のただ中にイエス様は立って言われるのです。「真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」と。

 いったい何が真実なのか。いったい何が見せかけでない本物なのか。いったい何が本当に信頼できる真実なるものなのか。イエス様は何を証しするためにこの世に来られたのか。――それは神の愛なのです。嘘と偽りに満ちたこの世を、罪と汚れに満ちた私たちを、それでもなお愛して赦して受け入れ、救おうとしていてくださる、その神の愛なのです。神の愛という、唯一真実なるものを証しするためにイエス様は来られたのです。

 イエス様は神の愛をどのように証しなさるつもりだったのでしょう。それがこの先に書かれていることなのです。私たちの罪の贖いとして十字架にかかることによってなのです。私たちのために血を流し、命を与えることによってです。ですから、ヨハネはその手紙において次のように語っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。その意味でキリストは神の愛そのものです。

 その御方が、もう一つの王国について語っておられるのです。目に見えるこの世界のただ中に、この世に属さない、目に見えない王国が到来しているのだと言っておられるのです。見せかけではない愛、嘘や偽りではない愛、決して変わらない真実なる愛、神の愛の王国が到来しているのです。神の愛そのものであるキリストと共に到来しているのです。そして、私たちはそこに招かれたのです。

 今日はこのように、礼拝堂に集まることはできません。それぞれが自宅において、礼拝をささげています。しかし、それぞれ体は離れていても、一つの王国に生きるようにと呼び集められた者として、礼拝をささげているのです。

 ならば私たちは、この世に満ちる嘘や偽りだけを見て、人間の不真実だけを見て、絶望する必要はないのです。この世の罪だけを見て、他の人や自分自身の罪だけを見て、絶望する必要はないのです。私たちは、この世のただ中にあって、もう一つの王国に生きることができるからです。神の愛の支配の中に、真実なる神の愛に信頼して生きていくことができるからです。

 神の真実はこの世の不真実よりも強いのです。神の愛はこの世の罪よりも強いのです。キリストが十字架において証ししてくださった永遠なる真理、永遠に真実な神の愛の方が強いのです。その神の愛が、この世界を必ず救ってくださる。私たちを必ず救ってくださる。醜く汚い私たち自身からも救ってくださる。既に救いは始まっているのです。私たちは既に始まっている救いの中にいるのです。私たちはただひたすら、キリストが証ししてくださった神の愛を信じて生きるのです。それが私たちの信仰生活です。

(祈り)

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