ヨハネによる福音書20:19-23
安全な交わりを求めて
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節前半)と書かれていました。「週の初めの日」とは日曜日のことです。今日がその日です。
「その日」に弟子たちが集まっていました。彼らは後の教会の礎となる人たちです。彼らが集まっているところに既に教会があったと言えなくもありません。既に主の日の集まりがそこにありました。しかし、「ユダヤ人を恐れて」と書かれていましたように、それは恐れている者たちの集まりでした。逃げ場所を求める者たちの集まりでした。安全を求める者たちの集まりでした。だから彼らは集まっていた家の戸に鍵をかけていたのです。
この最初の弟子たちの最初の集まりは、教会が取り得る一つの形を示していると言えるでしょう。この世の敵意や葛藤から逃れて来ることのできる場所。安心して身を置ける安全な場所。もちろん、そのような安全な場所であるためには、ただ外の脅かす者から守られるというだけでは不十分です。安全な場所であるためには、互いに脅かすことも脅かされることもない安全な人間関係が必要です。
あの最初の弟子たちの最初の集まりはどうだったのでしょうか。――確かに互いに安全な人間関係がそこにあったと言うことはできるでしょう。しかし、それは全員がイエスの弟子だったからではありません。福音書に描かれているイエスの弟子たちの姿を思い起こしてみてください。彼らは常に誰が一番偉いかと争っていたのです。そもそも、元熱心党員であるシモンと元徴税人であるマタイが同居しているような弟子の群れなのです。どう考えても安心して身を置ける安全な関係ではなかったはずです。
ですから、あの鍵をかけた部屋の中に、互いに安全な関係があったとするならば、それは彼らがイエスの弟子たちだったからではありません。むしろ、イエスの弟子にふさわしくない自分であることを思い知らされた人たちだったからです。イエスの弟子としてのプライドも、命がけで従いますという決意も何もかも打ち砕かれた人々だったからです。すなわち既に互いに弱さをさらけ出してしまった人たちだったからです。
弱さを分かち合い、弱さを認め合っている交わりは、確かに安全です。彼らはユダヤ人たちを恐れて鍵を閉めていましたが、その部屋の中で互いを恐れる必要はなかったのでしょう。それは後に出てくるトマスと他の弟子たちの姿を見てもわかります。トマスはたとえ自分一人だけであっても「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と平気で口にすることができました。そして、そんなトマスを、伝えても信じようとしないトマスを誰も責めない。次の日曜日にはトマスも一緒にいるのです。
安心して身を置ける安全な場所。安全な交わり。このように、この最初の弟子たちの最初の集まりは、教会が取り得る一つの形を示していると言えます。
主によって赦される
しかし、私たちがただ安全な場所、安全な交わりを求めているだけならば、教会は極めて閉鎖的な集団にならざるを得ないでしょう。やたらに人が入ってきてもらっては困りますから。安心して身を置くことの妨げとなる人は排除しなくてはなりません。安心できる交わりを保たなくてはなりません。そのためには鍵をかけることが必要になります。
そこで大事なことは19節が前半だけで終わっていないということです。それは後半に続くのです。このように書かれています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19節後半)。
彼らの集まりは、ただ安心を求めての集まりに終わりませんでした。互いに安全な人たちの集まりに留まりませんでした。最も重要なことは、そこにイエス様が来てくださったということです。そして、こう言われたのです。「あなたがたに平和があるように」。
復活の主が「あなたがたに平和があるように」と語ってくださった。このことは何を意味するのでしょう。主はこの言葉と共に、二つのことをなさいました。この主の行為が、「あなたがたに平和があるように」という言葉の意味をはっきり示していると言えるのです。
第一に、主は「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹とをお見せになりました。なぜ手とわき腹をお見せになったのでしょう。それはそこに大きな傷跡があるからです。手には十字架にかけられた時の釘の跡があります。わき腹には槍で刺された時の大きな傷跡があるのです。
その大きな傷跡は弟子たちに彼らの罪を改めて思い起こさせるに十分であったに違いありません。彼らは逃げたのです。愛する主を見捨てたのです。そして主は十字架の上で死んだのです。イエス様はそのような彼らの罪を突きつける手の釘跡、わき腹の傷跡を隠しませんでした。まさにそこに立っていたのは《彼らが見捨てたキリスト御自身》に他なりませんでした。
彼らはそのような形で自分自身の罪と向き合う必要があったとも言えます。イエス様は「あなたがたに罪はない」とは言われないのです。主を十字架にかけたのは自分たちの罪だという事実から、彼らは目をそらしてはならないのです。そのように主が手とわき腹をお見せになった時、改めて自らの罪と向き合わされることとなりました。
しかし、そのような彼らがそこに見ていたのは、彼らを断罪するキリストではありませんでした。本当は責められて当然なのに、断罪されて当然なのに、滅ぼされて当然なのに、イエス様はそうなさいませんでした。主は「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。そう言って、手とわき腹をお見せになったのです。
その御言葉と共に彼らが受け取ったのは罪の赦しに他なりませんでした。だから「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれているのです。手の釘跡とわき腹の傷跡を示してキリストが現れたら、本来は喜べないはずでしょう。しかし、彼らは喜んだ。「あなたがたに平和があるように」とその御方が言ってくださったから。彼らの喜びは、赦された者として再び主と共に生きることができる喜びに他なりませんでした。
そのことが主の日の集まりにおいて起こるのだと聖書は伝えているのです。今日、私たちは礼拝堂に集まることはできませんが、それぞれの場所において心を合わせて礼拝する私たちのただ中にイエス様はいてくださいます。私たちはただ人間同士で罪深い者であることを認め合って生きるのではありません。私たちは主の御前において罪を示され、主の御前において自らの罪を言い表すのです。そして、その主から赦しを受け取るのです。復活のキリストが私たちにも言ってくださるのです。「あなたがたに平和があるように」と。
主によって遣わされる
そして、第二に主がなさったこと、それは次のように書かれています。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(21‐22節)。
息を吹きかける主の動作。それはやがて彼らに起こることを指し示すものでした。それから五十日目の五旬祭の日に、彼らに聖霊が降るのです。そして、彼らは世界に遣わされていくことになるのです。「聖霊を受けなさい」と主が言っておられることが実現するのです。
しかし、この主の動作はまた、主の日の集まりにおいて繰り返し起こる出来事をも示しているのです。それゆえにヨハネによる福音書では、あえて日曜日に主がこう言われたことが伝えられているのです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。
私たちは単にこの世の様々な敵意から逃れて、脅かされることのない人間関係を求めて教会に集うのではありません。単に安心して身を置くことのできる逃げ場を求めて教会に集まるのではありません。私たちはキリストによって聖霊に満たされ、この世界に遣わされるために集まるのです。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。確かに主はそう言われました。父なる神が御子キリストを遣わしてくださって、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいました。私たちに罪の赦しを与えてくださいました。そのキリストが私たちを遣わしてくださるのです。私たちが受けた神の恵みと赦しを手渡すために遣わされるのです。私たちもまた「あなたがたに平和があるように」と語ることができるのです。ですから、主は彼らにこう言われたのです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。
「罪は赦される」「赦されないまま残る」という受身の表現は、「神が赦してくださる」「神が赦さないまま残す」ということを言い換えたユダヤ的表現です。罪を最終的に赦すことができるのは、神様であって、弟子たちではありません。しかし、弟子たちが赦すならば、神が赦してくださると主は言われたのです。いわば罪の赦しの言葉が弟子たちに託されたのです。私たちに託されているのです。
主はそのような私たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、この世界へと私たちを送り出してくださいます。そのことがあの日彼らに起こり、今日それぞれの場所において共に礼拝を捧げている私たちに起こります。そのことが主の日の集まりにおいて起こるのです。
(祈り)