ルカ7:1‐10
私たちは毎週集まって、神の言葉を求めて祈ります。先ほども「どうぞ命の御言葉をここに集う私たち一同にお与えください」と祈りました。私たちは神の言葉を求めてここにいます。神の言葉を求めて、聖書に耳を傾けます。
しかし、私たちが本当に「神の言葉」を求めているかどうかは、繰り返し自らに問わねばなりません。私たちが「人の言葉」しか求めていないなら、「人の言葉」しか与えられないでしょう。そして、そこには「人の言葉」が成し得ること以上のことは期待できないでしょう。さて、私たちは「神の言葉」を求めているのでしょうか。
そうしていただくのにふさわしい人です
今日の福音書朗読には、「百人隊長」が登場してきました。ガリラヤの領主であったヘロデの軍隊の中級士官です。ユダヤ人ではありません。異邦人です。彼についてはこう書かれていました。「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(2‐3節)。この百人隊長がどういう人であったか、ここによく現れています。
「重んじられている部下」とありますが、これは「彼にとって大切な奴隷」というのが直訳です。もしかしたら家の奴隷の話かもしれません。7節では「僕」と訳されています。それが家の奴隷であれ、あるいは軍隊の部下であれ、いずれにせよ彼はその人を一人の人間として大切にしていたことが伺えます。その僕が病気になったとき、彼はイエスの助けを求めたのです。異邦人である軍人が、支配下にあるユダヤ人の一人に助けを求めたことは、それ自体、驚くべきことです。それは、自分のためではなく僕の癒しのためでした。
しかもその際に、彼は自分の部下を送ったのではなく、ユダヤ人の長老たちに取り次ぎお願いしたのです。「ユダヤ人の長老たちを使いにやって」と訳されていますが、内容的には異邦人ある百人隊長が、ユダヤ人である長老たちに頭を下げてイエスとの仲立ちをお願いしたということでしょう。そして、頼まれた長老たちは頼まれた以上のことをしたのでした。その百人隊長のためにイエス様に熱心に願ったのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4‐5節)。
「自ら会堂を建ててくれたのです」とありますが、それは単に会堂建築の費用を出してくれたという話ではありません。ただお金を出してくれたぐらいで、ユダヤ人が異邦人について「そうしていただくのにふさわしい人」などと言うことはまずありません。もともとユダヤ人は異邦人を汚れた者と見なして「犬」と呼び、異邦人はそのようなユダヤ人を忌み嫌っているという関係ですから。
しかし、そのような中にあって、この百人隊長はまさに「そうしていただくのにふさわしい人」と言われているのです。ただ会堂建ててくれただけでなく、その人となり、その人の生活、すべてが評価されていたということなのでしょう。もしかしたら使徒言行録に出て来るコルネリウス(使徒10:1)のように、自ら会堂に出入りし、律法を学び、主なる神を愛する、いわゆる「神を畏れる人々」と呼ばれる一人だったのかもしれません。
先ほどお読みしたように、百人隊長が願ったのは「部下を助けに来てくださるように」ということでした。そう長老たちに言付けたのです。しかし、当然のことながら、そこで本当に求めているのは神による癒しです。長老たちもそれは分かっているはずです。ですから、ここで「ふさわしい人」というのは、「神に願いを聞き入れられるのにふさわしい人」という意味合いでもあるのです。さらに言うならばそれは「資格がある」という言葉です。この百人隊長は神の恩恵にあずかる「資格がある」と言われているのです。
なるほど、彼の人となりを考えるならば、長老たちの言葉にもうなずけます。実際、私たちがその場にいても同じことを言ったかもしれません。それは通常私たちが考えていることでもあるのでしょう。わたしに神に何かを願う資格があるか。資格がないか。神に何かをしていただく資格があるか。資格がないか。――ところが、この物語では百人隊長がそのように人間性においても生き方においても「そうしていただくのにふさわしい人」であるから、神は願いを聞き入れて僕を癒してくださった、という話になっていないのです。
御言葉をください
話は次のように続きます。「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください』」(6‐7節)。
ユダヤ人の長老たちは百人隊長について「ふさわしい人、資格のある人」と言いましたが、この百人隊長自身は「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言うのです。百人隊長自身は自らを「ふさわしくない、資格がない」と言うのです。屋根の下に迎えられない。お伺いするのもふさわしくない。そう彼は言うのです。
それは彼が異邦人であり、イエス様がユダヤ人であるということもあるのでしょう。ユダヤ人が汚れていると見なす異邦人の家に、ユダヤ人であるイエス様をお迎えするわけにはいかない。それがこの言葉の意味することの一つではあるでしょう。しかし、恐らくそれだけではありません。ただ有能な医者を迎えるという話なら、彼はそう言わなかったと思います。「ふさわしくない、資格がない」と彼が言ったのは、この御方において神の権威と力が現れていることを知っていたからであるに違いありません。だからこそ、他の誰かではなくイエス様を求めたのです。
もとより人間のできることなど求めていないのです。必要なのは人間がすることではなくて、神の成し得ることだからです。だからこそイエス様を求めたのです。しかし、だからこそ当然であるかのように迎えることはできないのです。そこに現れているのは神の御業だからです。神の御前では一人の罪人としてへりくだらざるを得ないからです。人の前ではいくらでも誇れるかも知れませんが、神の御前においては、「わたしはふさわしくありません。資格がありません」としか言いようがないのです。
そのような者として、彼はどうしたのか。御言葉を求めたのです。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。イエス様が語られるならば、その言葉は必ず事を成すと信じているのです。なぜでしょうか。彼がそう言った理由は次のように説明されています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(8節)。
百人隊長が語っているのは、「言葉」の背後にある「権威」についてです。権威を持つ言葉には力がある。事を成す力がある。イエス様が語られる御言葉は、まさにそのような権威と力を持った神の言葉であることを、彼は信じているのです。だから、全幅の信頼をもってただイエス様の語られる神の言葉を求めたのです。
ヨハネによる福音書においては、イエス様御自身が次のように語っています。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14:10‐11)。
「信じなさい」とイエス様が言っておられますけれど、今日お読みしたのは、まさにそのように信じてその御言葉を求めた一人の人が現にいたのだという話なのです。要するに、先に信仰へと招かれていたはずのユダヤ人が信じない中で、それを信じたのが異邦人であったあの百人隊長だったということなのです。
ふさわしいからではなく
今日の箇所はこのように締めくくられていました。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』。使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」(9節)。
先にも申しましたように、この物語は、百人隊長が「そうしていただくのにふさわしい人」であるから、神は願いを聞き入れてくださり、部下が元気になった、という話になってはいません。イエス様がここで賞賛しているのは、彼の人となりでも行動でもないのです。「ふさわしくない」というへりくだった姿ですらないのです。そうではなくてイエス様が目を留められたのは彼の「信仰」でした。イエス様が語られる御言葉は、神の権威と力を持った神の言葉であることを信じ、そして求めた、その信仰でした。
私たちが求めているのは、人間の成し得ることですか。それとも神様だけが成し得ることですか。人の業ですか。それとも神の御業ですか。私たちの最終的な救いについてはどうですか。それは人間の成し得ることですか。それとも神様だけが成し得ることですか。私たちが救われるとするならば、それは明らかに神の御業なのでしょう。ならば私たちはふさわしい者ですか。資格のある者ですか。「ふさわしい」か「ふさわしくないか」を言うならば、もとよりふさわしい人などひとりもいないのでしょう。
ふさわしくないならば、「ふさわしくありません」と言ってへりくだったらよいのです。そして、ふさわしくない者のために十字架におかかりくださり、復活して今も生きておられる主の御言葉を求めたらよいのです。生きておられる主が語られる、神の権威と力を持った神の言葉を、信じてひたすら求めたらよいのです。神の言葉が、神の言葉として求められ、聞かれるところにおいて、神の御業が豊かに現わされるのです。
(祈り)