2019年5月12日日曜日

「命のパンを求め続けよう」

ヨハネ6:34‐40

天から降って来て命を与えるパン
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)。イエス様はそう言われました。

 「命のパン」。不思議な言葉です。私たちの日常では使われない言葉です。「命のパン」とは何を意味しているのでしょう。今日は34節からお読みしましたが、その直前の33節にはこう書かれています。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」。「命のパン」とは、「命を与えるパン」という意味のようです。さらに遡りますと、27節で主は人々にこう勧めておられます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。そうしますと、この「命」とは「永遠の命」のことであり、「命のパン」とは、「永遠の命に至る食べ物」を指しているものと思われます。

 このようにイエス様は、天から降って来て、世に命を与えるパンについて語られました。

 「天から降って来るパン」――これもまた私たちの日常には馴染みのない言葉です。天からパンが降るのを見たことはないでしょう。私もありません。しかし、これを聞いていたユダヤ人たちにはピンと来るものがあったはずです。というのも、旧約聖書の中に、天から降ってきたパンの話が出てくるからです。

 ユダヤ人の先祖は、モーセに率いられてエジプトを脱出しました。そしてただちに荒れ野に導かれます。荒れ野には食べ物がありません。大喜びでエジプトを脱出した彼らは、やがて空腹を訴え、不平を言い始めました。

 そこで主はモーセに言いました。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」(出16:4)。そして、マナという不思議な食べ物を与えられたのでした。まさにそれは天からのパンでした。こうして彼らは天からのパンによって養われ、旅を続けることができたのです。天からのパンは荒れ野にいたイスラエルの民に命を与え、彼らを生かしました。その意味において、確かにマナは彼らにとって「命のパン」でした。

 しかし、神がマナを降らせたのは、単に彼らの肉体的な飢えを満たすためではなかったのです。後にモーセがマナについて、次のように民に語っています。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8:3)。

 逆説的でありますけれど、神がパンを与えたのは、「人がパンだけで生きるのではない」ことを知らせるためだった、と言うのです。つまり、人が本当の意味で「生きる」ということは、単に食物による生命維持以上のことだということです。人が真に「生きる」とは、神の言葉によって生きることだ、と神は言われるのです。すなわち、神が人に語られ、人が愛と信頼と従順をもって神に応える。そのように人が神と共に生きることこそ、本当の意味で「生きる」ということなのです。

 言い換えるならば、そのような神との交わりこそが「命」なのです。「永遠の命」とは、永遠なる神との交わりに他なりません。その意味からしますと、命のパンとは、イスラエルの民が食べたマナそのものではありません。命のパンとは彼らに与えられた神の御言葉なのです。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と語られているとおりです。

 イエス様は今日の箇所において、そのような「命のパン」について語っておられるのです。間違ってならないのは、イエス様はここで「命のパン」について語っているのであって、「精神的なパン」について語っているのではない、ということです。物質的に満たされるのではなく、精神的に満たされることが必要だ、と言っているのではないのです。

 精神的な満足感や充実感が必要なだけならば、様々な事によって満たされ得るのです。事実、多くの人々は、そのような心の必要を満たすために奔走しているのでしょう。心を満たすものを提供するビジネスはいくらでもあるのです。しかし、必要なのは精神的な何か、ではありません。必要なのは「命」なのです。

 イエス様が「命のパン」について語られたのは、この世界が命を失っているからでしょう。そうでなければ「命のパン」について語る必要はありません。「天から降って来て、世に命を与えるパン」について語られたのは、この世界が神との交わりによる真の命を失っているからです。それは宗教的に見えるユダヤ人社会においてもそうだったのです。彼らも「命のパン」を必要としていたのです。それは、今日の世界においても同じです。この世は「命のパン」を必要としているのです。

 この世界は苦しんできました。今も苦しみ続けています。多くの問題がこの世界を苦しめているように見えます。人類どころか生物全体の存続を脅かしている核問題と環境問題を抱えるこの世界は、まさに死に瀕した状態に見えます。しかし、本当は、死に瀕して苦しんでいるのは解決困難な諸問題のゆえではないのです。神の言葉を失い、神との交わりを失い、命を失っているからなのです。世界は本当の命に飢えているのです。「命のパン」が必要なのです。

わたしが命のパンである
 そこで、イエス様はこう言われたのです。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。御自分を指して、「わたしが命のパンである」と宣言されたのです。これはある意味で歴史上の誰も口にすることがなかった驚くべき宣言です。

 イエス・キリストが命のパンであるということは、第一に、この御方こそ神の御言葉であり神の啓示である、ということを意味します。神は、かつて預言者を通して語られました。人間の言葉や文字によって語れました。しかし、最終的には人間の言葉によってではなく、御子をお遣わしになることによって語られたのです。イエス・キリストという一人の御人格をもって、この世に語りかけられたのです。ヨハネによる福音書の1章では、このことが次のように表現されていました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)。

 そして、第二に、イエス・キリストが命のパンであるということは、実際にこの御方が私たちに神との交わりを与え、命にあずからせてくださることを意味します。そして、それは丁度、パンが人に食されて肉体に命を与えるのと同じ仕方において起こるのです。パンは口に入れられ、噛み砕かれ、消化されて命を与えます。いわば、パンは自らを与えることによって人に命を与えるのです。そのように、キリストもまた自らを与えることによって命を与えるパンとなられたのです。

 ですから、イエス様はこの後に、もっと露骨な表現をもって、御自分の為そうとしていることを語られます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(6:53‐55)と主は言われるのです。

 「わたしの肉を食べよ。わたしの血を飲め」。このことが一体何を意味するのか、その時聞いていた者は誰一人理解できなかったに違いありません。しかし、やがて弟子たちはその意味するところを知ることになるのです。それはイエス様が十字架の上で肉を裂かれ、血を流されることを意味していたのだということを知ることになるのです。あの十字架上のイエス様の姿は、いわば「わたしの肉を食べよ。わたしの血を飲め」というイエス様の叫びそのものだったのです。

 私たちを神との交わりへと導き、命を与えるためには、そのようにイエス様が自分自身を与え尽くして死ななくてはなりませんでした。なぜなら、私たちが神と共に生きるためには、まず私たち自身の罪が取り除かれなくてはならないからです。

 罪は私たちが忘れ去ることによって除かれるのではありません。私たちが忘れても、罪は残ります。それは神の御前に残るのです。罪は命をもって贖われなくてはなりません。私たちの罪は、私たちの罪を代わりに負って死んでいく贖いの犠牲によって、担われ、取り除かれるのです。こうして、主は御自分を与えることにより、私たちに命を与える「命のパン」となってくださったのです。

そのパンをいつもわたしたちにください
 しかし、よくよく考えてみますと、「パンが与えられること」イコール「飢え渇きを免れること」ではありません。パンを手にしている人が飢えて死ぬことはあり得えることなのです。その人がパンを食べなかったら、パンが与えられていても、やはり飢えて死ぬのです。

 確かに、主は私たちが生きるための「命のパン」となってくださいました。「命のパン」は既に与えられているのです。二千年前に既に与えられているのです。しかし、そのことは自動的に命の飢えを免れ、滅びを免れることを意味してはいません。人は「命のパン」を求め、それを自分自身で食べなくてはならないのです。それゆえに、主は「わたしが命のパンである」と言われただけではなく、さらに次のように言われたのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。

 キリストのもとに来る者とは、キリストを信じる者です。命のパンであるキリストを食べるとは、キリストを信じることです。ここで語られているのは、イエスという一人の御方と、私たち自身との、人格的な関係です。

 私たちは、単にキリスト教という宗教を信じるように求められているのではありません。単に聖書という聖典を信じるように求められているのでもありません。単にイエスの《教え》を信じるようにと言われているのでもありません。ただ単に、キリストについての「何か」を信じるようにと求められているのではありません。私たちを愛して御自分の命を与えてくださり、復活して今も生きておられるこの御方を求め、この御方を信じるようにと呼びかけられているのです。

 彼らは言いました。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。彼らは自分が何を求めているか、その時には知りませんでしたが、私たちは何を、いや「誰を」求めるべきかを既に知らされています。私たちこそ常に「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うべきなのでしょう。キリストは、今も御自分の体である教会を通して、私たちを御許に招き、こう言っておられるのですから。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と。

(祈り)

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