2016年9月4日日曜日

「キリストに倣いて」

2016年9月4
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 2章18節~25節

それは恵みなのです
 今日の礼拝では小アジアの諸教会に宛てて書かれたペトロの手紙が読まれました。今日の箇所では、「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(18節)と勧められていました。

 「召し使いたち」というのは、一般家庭の下働きをしている奴隷たちです。当時のギリシャ・ローマ世界には六千万人もの奴隷がいたと言われます。その中には職人や教師や医師もおり、また家庭に仕える「召し使いたち」もいたのです。必ずしも今日私たちが「奴隷」という言葉からイメージするほど悲惨な生活をしていたわけではありません。 

 ですから、中には「善良で寛大な主人」のもとで幸福に暮らしていた奴隷たちもいたことでしょう。しかし、もう一方で「無慈悲な主人」のもとにいる奴隷たちも確かにいたに違いありません。そのような主人に仕えるならば、不当な扱いを受け、理不尽な苦しみを味わうことにもなるのでしょう。

 そのような辛い境遇にある人々もまた教会の中にはいることを重々承知の上で、ペトロはなおこう語りかけるのです。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」。

 ペトロがそのように勧めるのはどうしてでしょうか。彼はこう続けます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」(19節)。これが理由です。

 どう思われますか。無慈悲な主人から受ける不当な苦しみを耐えることを神はお望みであると言います。だから苦痛を耐え忍ぶのだ。それが御心に適うことなのだ、と言うのです。ここを読んで何を感じましたか。どのような神の姿が思い描かれますか。

 これだけを読みますと、人間が苦しみを耐えているのを楽しんで眺めている、それこそ「無慈悲な主人」としての神様の姿を思い描く人がいるかもしれません。わたしはかつてここを読んだ時、そんな神様のイメージを抱いてしまったことがありました。

 しかし、ここは日本語にするのがいささか難しい箇所でもあるのです。19節の「御心に適うこと」と訳されている「カリス」という言葉は、様々に訳し得る言葉だからです。他の箇所では通常「恵み」と訳されます。ですから、ここには「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは《恵み》なのです」と書かれているのです。神様は意地悪をしているのではありません。そこで目にしているのは「恵み」なのです。「御心に適うこと」であるとは、そういうことなのです。しかし、不当な苦しみを耐えることがなぜ「恵み」なのでしょう。

 ペトロはこう続けます。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(20節)。実は、ここにも「恵み」という言葉が出て来ます。「神の御心に適うことです」は「神の御前にある恵みです」とも訳せるのです。

 そのように、ペトロはただ単に「不当な苦しみを耐えること」が「恵み」だと言っているのではないのです。ペトロが思い描いているのは、ただ不当な苦しみを耐えている人の姿ではないのです。そうではなくて、ここに書かれているように、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」人の姿なのです。

 言い換えるならば、善を行っても苦しみを受けることが分かっているのに、耐え忍ばなくてはならないことが分かっているのに、それでもなおあえて善を行う方を選ぶ人の姿なのです。そこに現れているのは「恵み」だ。それは「神の御前にある恵み」だ。そうペトロは言っているのです。

 「神の恵み」。それはただ人に与えられてそこに留まるものではありません。人に与えられた恵みは、人を通って他者へと向かうものなのです。言い換えるならば、他者へと向かって現れる時に、与えられた恵みはこの世界に目に見えるものとなるのです。

 ここに恵みを与えられた人がいます。その人は無慈悲な主人に仕える人です。無慈悲な主人なのに、不当に扱うことしかしない主人なのに、それでもなお主人を愛して、心から主人を愛して、心から畏れ敬って、忠実に仕えようとする召し使いの姿がそこにあります。そこに現れているのは何か。神の恵みが形を取って現れているのです。まさに、憎しみと怒りの連鎖によってがんじがらめになっていることの世界に、この世界からではない天から来る恵み、神の恵みが形を取って現れているのです。

主の模範に従う
 そのために彼らは召されてキリスト者とされました。そのために私たちもまた召されてここにいるのです。「あなたがたが召されたのはこのためです」。そして、ペトロは召してくださった方を指し示すのです。「というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(21節)。

 イエス様が模範を残してくださいました。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(22節)。そう書かれています。ならば、本来苦しみを受ける理由はありませんでした。しかし、その御方はののしられました。苦しめられました。それは明らかに不当な苦しみでした。しかし、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(23節)。そのように主は不当な苦しみを耐え忍ばれました。その意味でイエス様は父なる神に裁きをゆだねて忍耐することの模範であったと言えます。

 しかし、イエス様は忍耐の模範である以上に、恵みの現れとしての模範でした。ペトロはこう続けるのです。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。

 イエス様が担ってくださったのは「わたしたちの罪」だったのだとペトロは言います。この24節はイザヤ書53章をもとにした当時の讃美歌であったろうと言われます。これを読んでいる人たちがこれまでに幾度となく歌ってきた歌かもしれません。そこに歌われているのは、繰り返し聞いてきた福音の言葉です。それを今、不当な苦しみを受けている人たちに、不当な苦しみを受けているからこそ、改めて語って思い起こさせるのです。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。そう、主が担ってくださったのは、他ならぬ「わたしたちの罪」でした、と。

 そのように、イエス様の受けた苦しみは私たちの罪のためだった。それは言い換えるならば、イエス様を不当に苦しめたのは私たちだった、ということです。あの方に傷を負わせたのは私たちだったということです。あの方を傷だらけにして十字架にかけたのは私たちだったということです。その私たちが負わせた傷に対して、あの方が私たちに返したのは――癒しでした。そのつもりであの方は傷を負われたのです。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」とあるとおりです。そこに見るのは「恵み」です。天からの恵み以外の何ものでもありません。

 その御方のもとに今、あなたがたはいるのだとペトロは語ります。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(25節)。主の日の集まりにおいて、主の晩餐を共に食する集まりにおいて、この手紙は繰り返し読まれたに違いありません。

 主の裂かれた体、主の流された血をいただきながら、主が受けられた傷、そして与えられた癒しを思いつつ、この手紙の言葉を思い巡らしたことでしょう。恵みの現れそのものである御方と共にいる幸いを思いつつ、この手紙の言葉を一つ一つ受け取ったことでしょう。

 もはやさまよっている羊ではないのです。そうです、私たちもまた、主の食卓を囲みながら、この言葉を聞いているのです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。

 その魂の牧者である御方が、今日もその足跡に続くようにと招いておられます。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍び、恵みの現れとなりなさい」と。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。

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