2016年4月17日日曜日

「あなたは、わたしに従いなさい」

2016年4月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 21章15節~25節

「食事が終わると」と書かれていました。この前に書かれているのは、復活されたイエス様との食事の場面です。夜通し働いていた弟子たちをイエス様が迎えてくださいました。炭火を起こし、魚を焼いて、パンを用意して迎えてくださいました。主は言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。弟子たちは喜びをもって主と食を共にしました。

 その姿によって指し示されているのは私たちも行っている聖餐です。そして、聖餐卓の周りに集められ、迎えられてささげる主の日の礼拝です。夜通し働いて何も捕れなかったとしても必ず朝は来ます。そのような日が続いた一週間であっても、日曜日は必ずおとずれます。そして、復活の主が私たちを迎えてくださいます。そこには復活の主が既に豊かな命の糧を備えていてくださいます。そして、迎えられた私たちは命の糧に養われます。今日お読みしているのは、そのような復活の主との食事に続く場面です。

わたしに従いなさい
 その食事が終わると、主はペトロに問いかけました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。そこからペトロとイエス様との間の非常に印象的な対話がはじまります。そのやりとりはどこに行き着くかを先に見ておきましょう。イエス様はペトロに言われるのです。「わたしに従いなさい」(19節)。

 命の糧にあずかったペトロはイエス様から「わたしに従いなさい」と言われます。「わたしについて来なさい」と言われるのです。しかし、イエス様から「ついて来なさい」と言われているこのペトロは、かつてイエス様から「あなたは今ついて来ることはできない」と言われたペトロであることを思い起こさねばなりません。

 それはイエス様が十字架にかかられる前夜、最後の晩餐でのことでした。イエス様は御自分が間もなく捕らえられ、十字架にかけられることをご存じの上で、弟子たちにこう言われたのです。「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(13:33)。するとペトロは驚いて尋ねるのです。「主よ、どこへ行かれるのですか」。するとイエス様はペトロにこう答えられました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」これを聞いたペトロは言うのです。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。

 ペトロは本気だったと思います。どこまでもついていくつもりだった。命を捨てるようなことになっても、ついていくつもりだったのです。他の福音書ではこうも言っています。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)。他の人がつまずいて、ついていかなかったとしても、わたしはつまずきません。わたしはどこまでも従ってまいります。そう語るペトロは本気だったと思います。

 しかし、その時イエス様はペトロに言われました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言いうだろう」(13:38)。そして、そのとおりになりました。イエス様には分かっていたのです。「あなたは今ついて来ることはできない」。しかし、それでよかったのです。なぜならそこにはイエス様がひとりで成し遂げなくてはならないことがあったからです。

 世の罪を取り除く神の小羊として、この世の罪を代わりに自らの身に負うこと。罪の赦しをもたらすために、十字架の上で罪の贖いを成し遂げること。それはペトロがついて行っても一緒にはできないことでした。人間がいかなる形においても手を貸すことができないことでした。救いはただイエス様の成し遂げられることにかかっているのであって、人間はただその恵みにあずかるだけなのです。そして、イエス様はひとりで成し遂げられました。主は「成し遂げられた」と言って、息を引き取られた。そのようにヨハネによる福音書は伝えています。

 ただひとりで罪の贖いを成し遂げられたイエス様は、復活されて再び弟子たちに出会います。ペトロにも出会ってくださいました。イエス様はペトロをも迎えてくださいました。イエス様はペトロにも命のパンを差し出してくださいました。そして、ペトロは聞いたのです。「わたしに従いなさい」と言われる主の御声を。

 もうイエス様は「あなたはついて来ることはできない」とは言われません。ペトロはイエス様についていくのです。だからこそ、今日お読みしたイエス様とペトロとのやりとりもまた必要だったのです。三度イエス様を否んだペトロが、ついて行くことができなかったペトロが、そこから再びイエス様についていくためでした。

わたしを愛しているか
 食事が終わると主はペトロに尋ねました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。「この人たち以上に」つまり「他の弟子たち以上に」と主は問われます。もうペトロは、「この人たち以上に」とはいいません。「あなたのためなら命を捨てます」とも言いません。ペトロはあの時のことを思い起こしたことでしょう。胸を痛めながら、それでも精一杯の思いを込めて彼は答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」。

 そして、二度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。もうイエス様も「この人たち以上に」とは言われません。主が聞きたいのはそんなことではないからです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの羊の世話をしなさい」。

 そして、三度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。イエス様が三度も尋ねたのでペトロは悲しくなって言いました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。

 しかし、本当は、ペトロは悲しむ必要などありませんでした。主が三度尋ねられたのは、ペトロの言葉を信用していないからではないからです。主が三度尋ねられたのは、三回主を否んだペトロが三回「愛しています」と口にすることができるようにするためでした。そして、それで十分なのだとペトロ自身が知るためでした。

 イエス様は「わたしを愛しているか」としか問わなかったのです。ペトロの過去がどうであったかを問いませんでした。「あなたのためなら命を捨てます」というあの言葉はどうなったかと問いませんでした。自分の言葉に誠実であったかを問いませんでした。そうです、主はこれまでペトロがどうであったかを問いませんでした。過去の失敗を一つ一つ打ち消すかのように、「わたしを愛しているか」とだけ問うたのです。そして、ペトロに答えるチャンスを与えてくださいました。主によって重要なことは、過去がどうであったかではなく、今、主を愛しているか、ついて行こうとしているか、ということだからです。

それは私の話であり、あなたの話です
 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるペトロに、主は言われました。「わたしの羊を飼いなさい」。そして、さらに主はこう続けられます。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)。

 「手を伸ばす」というのは、古代の教会においては「磔にされる」ことを意味しました。ここで語られているのは、ペトロが殉教するということです。彼は、その晩年が決して自分の思うようにならないこと、そして、最後には悲惨な死を遂げなくてはならないことを示されたのです。しかし、驚くべきことに、聖書はこのように続けるのです。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)。

 与えられた使命を立派に果たして、大きな働きの実りを後世に残して神の栄光を現すというならば話は分かりやすいでしょう。しかし、イエス様はそのような話をされませんでした。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」ようなことになると言われたのです。それでもなおペトロは神の栄光を現すことになるとイエス様は思っておられたのです。それでもなお、単に「連れて行かれる」のではなくて、ペトロはキリストに従う者であり得る。イエス様はそう思っておられたのです。だから主はそのように話してから、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われたのです。

 この言葉をイエス様の命の糧をいただいた私たちもまた聞くのです。繰り返し、「わたしを愛するか」という問いと共に聞くのです。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。確かにそのようなことはあります。迫害の時代に生き、殉教の死を遂げることになるペトロだけの話ではありません。決して私たちの手の内には収まらない、私たちの人生があります。どのように生きるかだけでなく、どのように死ぬかということも、私たちの思い通りにはなりません。しかし、それでもよいのです。それでもなお私たちが生き、そして死ぬことは、神の栄光となり得るからです。単に「行きたくないところへ連れて行かれる」のではなく、どこまでもイエス様についていくことはできるからです。死の向こうまでイエス様についていくことはできるのです。

 私たちの人生において本当に重要なことは何が起こるかではありません。願った通りになるか否かでもありません。イエス様の「わたしを愛するか」という問いにどう答えるのか、そして、「わたしに従いなさい」という招きにどう答えるのかということだけなのです。誰か他の人の話ではありません。それは私の話であり、あなたの話です。

 ところがペトロは自分自身が問われ、自分が招かれているのに、こんなことを口走っています。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)。まことに愛すべき人物です。そこに見るのも私たち自身の姿でしょう。それに対するイエス様の答えは極めて明快でした。「わたしの来るときまで(つまりキリストの再臨まで)彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」そうです、主はあくまでも言われるのです。「あなたは、わたしに従いなさい」と。他の人の話にしてはなりません。これは私の話であり、あなたの話です。

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