2016年10月2日日曜日

「口実であっても、真実であっても」

2016年10月2
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章12節~21節

福音の前進に役立った
 今日はパウロが獄中からフィリピの教会に宛てて書いた手紙をお読みしました。彼はフィリピの信徒たちにこう語りかけます。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)。

 「わたしの身に起こったこと」とは投獄されたことです。自由を奪われたことです。これまで三回に渡る宣教旅行を繰り返し、多くの人々に福音を宣べ伝え、数多くの教会を生み出してきたパウロが、もはや自由に動くことも語ることもできなくなったということです。

 いや、自由を奪われただけでなく、彼は今、命までも脅かされているのです。今日の朗読の最後の言葉は「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という言葉でした。パウロは処刑されることも覚悟の上でこの手紙を書いているのです。

 そのように伝道者パウロの自由が奪われること、さらにはその命が脅かされること、それは誰の目にも福音の前進を阻むものとして映ったことでしょう。しかし、パウロは言うのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と。

 ここでパウロが使っている「前進」という言葉は、道を切り開いて進むことを表す言葉です。ある人は「開拓的前進」と訳しています。パウロが投獄されることによって、今まで道がなかった所に道ができるのです。そのようにして、福音が前進していくことになったのだ、とパウロは言って言うのです。

 その前進はどのようにして起こったのでしょうか。パウロはこう続けます。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り…」(13節)。

 福音を阻むと思える出来事によって、新しい出会いが生まれました。パウロに与えられたのは、ローマの兵士たちとの出会いでした。彼は監禁されている間、四六時中ローマ兵の監視下に置かれることになったからです。一説によれば、監視は六時間毎の四交代制で行われたと言います。彼らはその時間、いやでもパウロと共にいなくてはなりませんでした。
 
 「わたしが監禁されているのはキリストのためである」とパウロは彼らに語ります。そのキリストとは誰であり、何をしてくださったかを語ったことのでしょう。四交代制でしたら、一日四人には語ることができます。そのようにして、やがてキリストとパウロとの関係は、兵営全体に知れ渡ることとなりました。それはパウロが投獄されなかったら起こりえなかったことでした。福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させて行ったのです。

 この箇所を読みますときに、一人の牧師を思い出します。昨年11月に震災後のネパールを訪れまして、その時にマンジャ・タマングという牧師の家に泊まらせていただきました。彼は40代の牧師で、伝道者となって二十年になりますが、実はその内約半分の9年間を獄中で過ごしていました。まったくの冤罪のために家族とも分かれ、投獄されていたわけです。どんなに辛かったことかと思います。しかし、彼はその時のことを、顔を輝かせて語ってくれました。その時、主は彼を通して、多くの人と出会ってくださった。そうでなければ、出会うことのなかった獄中の人々との出会いの中で、多くの人がキリストを信じるに至りました、と。

 そのように福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させてくださる。そのことを主は見せてくださいました。パウロもまた、その事実をフィリピの教会の人々に証ししているのです。

 いや、それだけではありません。パウロはさらに続けます。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(14節)。

 「わたしの捕らわれているのを見て」と彼は言います。人々はそこに何を見たのでしょう。捕らえられた人。自由を奪われた人。風前の灯火である命。――いや、それだけではありませんでした。この手紙に繰り返されている言葉、それは「喜び」なのです。人々が見たのは喜びだったのです。

 自由を奪われ、命さえ奪われるかもしれないのに、なおそこで喜びをもって生きていたパウロ。そこに人々が見たのは、人間の自由よりも、そしてこの世の命よりも、もっと大いなるものだったのです。それは、この世の命よりも大切な、この世の命よりもはるかに価値ある、神の救いでありました。キリストによる永遠の救いだったのです。

 星野富弘さんという方をご存じの方は多いことでしょう。重度の障害を負いながらも、口で絵筆をくわえて絵を描く詩人であり画家である方です。彼の作品の中にこんな詩があります。

 「いのちが一番大切だと
  思っていたころ
  生きるのが
  苦しかった
  いのちより大切なものが
  あると知った日
  生きているのが
  嬉しかった」

 星野さんが知った「いのちよりも大切なもの」。代々の殉教者たちが、そのために喜んでこの世の命を差し出した「いのちよりも大切なもの」。人々は獄中にあるパウロがなおも喜びをもって生きている姿の中に、その「いのちよりも大切なもの」をはっきりと見たのです。

 先週、大変重い病気と診断された人と話をし、一緒に祈りました。その方が心に留めておられる聖書の言葉は、今日お読みした「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という御言葉でした。わたしはその人が確かに「いのちよりも大切なもの」をしっかりと持っていることを私もまた見せていただきました。

 そのように人々は、パウロの捕らわれている姿の中に、「いのちよりも大切なもの」をはっきりと見たのでした。それゆえに、「恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」とパウロは言っているのです。そのようにして、福音を阻むとしか思えない出来事のただ中にある人を神は用いられたのです。そのようにして周りの人々を励まされ、なおも福音を前進させてくださっていたのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」

キリストが宣べ伝えられているのだから
 さて、私たちはパウロの投獄が、どのように福音の前進となったかを見てきました。しかし、パウロの身に起こったのは、ただ投獄だけではありませんでした。パウロはさらにこう続けます。

 「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。

 なんと、パウロが身動きの出来ない時に、こんなことが起こっていたのです。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者」がどのような人々であったのか、詳しいことは分かりません。しかし、福音宣教が必ずしも「愛の動機」からなされるとは限らないということは分かります。人間の罪は最も聖なる営みにも入り込みます。獄中のパウロをいっそう苦しめようという不純な動機からもなされ得る。事実、そのようなことが起こっていたのでした。

 パウロはそのために苦しんできたのでしょう。心を痛めてきたのでしょう。しかし、驚くべきことに、パウロはそれでもなおこう言うのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。

 それはなぜか。それが純粋に愛の動機からのことでなくても、人間の不純な動機が入り込んでいたとしても、それでもなお福音は前進することを知っているからです。

 パウロは、キリストが告げ知らされているなら、それでよいではないかと言うのです。そもそも人間のやることなすこと、純粋に愛から出ていないことばかりではないですか。しかし、それでもなお神の救いの業は進んでいくのです。

 考えてみれば、そのようにして、教会は今日に至っているのではないでしょうか。神が純粋さだけを問うならば、とうの昔に教会など無くなっているはずなのです。実際には、神の憐れみによって、人間の罪にもかかわらず、人間の悪意にもかかわらず、不純な動機にもかかわらず、福音は前進してきたのです。

 人間が捕らえようが、投獄しようが、鎖につなごうが、命を奪おうが、あるいは悪意と不純な動機によって動こうが、人間がすることがすべてなのではありません。人間が何をしようが、神は生きておられるのです。神は神のなさろうとしておられることを進められるのです。神がこの世界のことにも、死の向こうの永遠の救いに関わることにも関わっておられるのです。

 そのような神の御業の中にあることをパウロはよくよく分かっているのです。だから彼は喜んでいるのです。投獄されようが、妬みに駆られた人間が何をしようが喜んでいるのです。そして、こう言うのです。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」(19節)。

 悪意によって動いている人がいたとしても、もう一方ではパウロのために祈っている人もいるのです。神は生きておられます。だから祈られた祈りは無駄に消えていくことはありません。

 そして、もう一方でイエス・キリストの霊は生きて働いておられる。私たちの救いのために十字架にまでおかかりくださった方は、今も生きて働いておられる。

 だから人間の悪意はパウロを損なうことはないのです。害を与えることはできないのです。人がどんなにパウロを苦しめようとも、本当の意味では苦しめることなどできないと彼は知っているのです。むしろ、「このことはわたしの救いとなるのだ!」とさえ、パウロは言うのです。パウロ個人の救いに関しても、確かに福音は前進しているのです。救いをもたらす神の御業を誰も妨げることはできないからです。

 「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。そうです、私たちも知らなくてはなりません。私たちは福音を携えてここから出て行きます。そして、私たちの身に起こるすべてのことを通して、福音は前進して行くのです。

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