サムエル記上 12:1~25
この章にはサムエルの長い告別説教が記されております。この直前には次のように書かれています。「サムエルは民に言った。『さあ、ギルガルに行こう。そこで王国を興そう。』民は全員でギルガルに向かい、そこでサウルを王として主の御前に立てた。それから、和解の献げ物を主の御前にささげ、サウルもイスラエルの人々もすべて、大いに喜び祝った」(11:14‐15)。このように王国を興すためのギルガルでの集会においてサムエルが告別説教を語るのです。つまり大事なことは、イスラエルが士師によって治められる部族連合から王制へと大きく移り変わっていく時代がこの説教の背景となっているということです。
このように時代が大きく動く場面において一人の人物が長く語るというシチュエーションは、既にヨシュア記24章に出てきました。そこではヨシュアが民全員に語っています。このように、長く語られる部分というものは、この歴史物語全体において重要な位置を占めているのです。ヨシュア記から列王記まで(ルツ記は除く)は一つのまとまった歴史物語です。(「申命記的歴史」などと呼ばれます。)そのテーマをひとことで言うならば「悔い改め」です。そして、そのテーマは例えばこの章のように、一人の人物が長く語る部分によく現れているのです。その意味で今日の箇所は特に重要です。
この告別説教において、まずサムエルは自分が指導者として正しく権力を行使してきたかを民に問います。「わたしが、だれかの牛を取り上げたことがあるか。だれかのろばを取り上げたことがあるか。だれかを抑えつけ、だれかを踏みにじったことがあるか。だれかの手から賄賂を取って何かを見逃してやったことがあるか。あるなら、償おう」(3節)。これに対して民は答えます。「あなたは我々を抑えつけたことも、踏みにじったこともありませんでした。だれの手からも何一つ取り上げたりしませんでした。」するとサムエルは言うのです。「今日、あなたたちがわたしの手に何一つ訴えるべきことを見いださなかったことについては、主が証人であり、主が油を注がれた方が証人だ。」民はそのことを認めて答えます。「確かに証人です。」
自らの権力行使について潔白を明らかにするこのやりとりは、いったい何のためになされたのでしょう。ある意味では民から退けられることになるサムエルです。しかし、彼は自らの名誉を守るために民に問うたのではありません。彼は明らかにそこに新しい王サウルが立っていることを意識してこれを語っているのです。「今、主と主が油注がれた方の前で、わたしを訴えなさい」(3節)、「主が証人であり、主が油を注がれた方が証人だ」(5節)と繰り返し新しい王サウルに言及していることからも分かります。つまりサムエルは、自らがどのように権力を用いてきたかを語ることによって、今後の王権のあり方をサウルに示しているのです。
サムエルはあくまでも宗教的な指導者です。サムエルは神から与えられた権威と力によって民を導いてきたのです。その現れは例えば18節以下に見るように、しばしば超自然的な力としても現れていたのです。その意味でサムエルを通して力を行使していたのは神であることは明らかであり、まさに神がイスラエルの王として治めていたのです。
しかし、イスラエルは王国となっていきます。王国には徴兵があり常備軍を伴う国家体制が出来上がっていくのです。王はその軍事力の頂点にも立つことになります。つまり純粋にこの世の力を持つことになるのです。世俗的権力を持つことになるのです。だからこそ、世俗的な権力が統治する時代になった時、その権力がいかなる仕方で用いられるかが決定的に大きな問題となるのです。
ですからサムエルは、民から搾取をしなかったこと、不当に抑圧しなかったこと、収賄によって裁きを曲げなかったことについて、自らの潔白を明らかにするのです。王がそのように力を用いてはならないことを示すためです。
さらにサムエルは、権力の行使の仕方を問われる王だけでなく、王を含めすべての民にこれまでの歴史を語り聞かせます。ここで重要な言葉は「さあ、しっかり立ちなさい」という言葉です。「しっかりと立ちなさい」という言葉は、直訳すると、「自らを据えなさい」という言葉です。自分自身をあるべきところにしっかりと据えなくてはならないのです。
それはどこでしょうか。イスラエルの歴史の中にです。彼らが伝えられてきた物語の中にです。その歴史の物語は「救いの御業のすべて」(7節)と呼ばれています。つまり彼らが伝えられてきたイスラエルの物語は神がなされた救いの歴史の物語なのです。その恵みの歴史の中に自分自身をしっかりと据えることがここで求められているのです。なぜなら、そのことが彼らの生き方を決定することになるからです。
これは今日の私たちにおいても非常に重要なことです。私たちが信じている神は、奴隷の民イスラエルをエジプトから導き出された神なのです。荒れ野において彼らを導き、約束の地に入れられた神なのです。イスラエルの物語は私たちの物語です。いやそこで終わりません。私たちが信じている神は、イエス・キリストを十字架にかけて私たちの罪を贖い、死者の中から復活させて死の扉を打ち破られた神なのです。そして聖霊を地上に注ぎ、教会を誕生させ、世界の隅々にまで福音を伝えさせた神なのです。
そのすべての物語は私たちの物語であり、その神こそ私たちが信じる神なのです。その物語の中に、私たちは自らをしっかりと据えなくてはなりません。私たちが、この世の言葉を聞き、この世の物語の中に身を置くのか、それとも伝えられている神の救いの物語の中に身を置くのかによって、私たちの人生の歩みは決定的に違ってくるからです。また、教会の歩みも決定的に違ってくるのです。
ここでサムエルは特に出エジプトとカナンへの定住、そして民の背信と士師を通しての救いの物語を語り聞かせます。出エジプト記から士師記までの物語です。ここに見ますように、サムエルが語った救いの歴史とは、神の恵みの歴史であると同時に、人間の側から見るならば、罪の悔い改めと神の赦しの歴史です。彼らは「主を忘れた」(9節)のです。しかし、彼らは苦しみの中で「我々は罪を犯しました。…我々はあなたに仕えます」(10節)と告白するのです。そして、そこに神の救いの御業が起こります。
そのように神が赦しの恵みを現に表された救いの物語をサムエルは語り聞かせたのです。この歴史の中に、彼らは自らをしっかり据えなくてはなりませんでした。その時に、いかに生きていくべきかが明らかになるのです。彼らは王を求めました。それは彼らの罪でした。彼らは間違いを犯しました。しかし、重要なことは、ただ後悔することではなく、罪を罪として認めた上で、主に立ち帰り、主に仕えることなのです。
それゆえにサムエルは言います。「だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に降ったようにあなたちにも下る」(14‐15節)。そう言った上で、サムエルは天からのしるしを呼び求めて、それを民の御前に現します。それは乾期である小麦の刈り入れの時期に雷雨を降らせるということでした。
民はこのしるしを見て恐れます。彼らは自らの罪を認めて言います。「確かに、我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました」(19節)。それに対してサムエルは「恐れるな」と言います。それは、罪を認めるイスラエルの民に対する神の赦しの宣言に他なりません。新しい歩みは、この神の赦し、神からの「恐れるな」に基づくのです。
その上でサムエルは言います。「今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい」と。その勧めには、神の約束が伴います。「主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである」。
さて、この歴史物語が書かれたのは、既に王国が滅びてしまった後です。25節に「悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」と語られていますが、そのことが実現した後に書かれたのです。民が自らを守るための最善の体制と見えた王制そのものが滅びてしまうのです。しかし、その時でも、彼らには唯一の道が残されていたのでした。それは悔い改めて神に立ち帰り、神の赦しに基づいて、そこから心を尽くして主に仕えて生きる道なのです。サムエルの告別説教は、その真理を、今日の私たちにも語っているのです。
2025年7月30日水曜日
祈祷会用:サムエル記上 12:1~25
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