2025年1月29日水曜日

祈祷会用:ホセア書 5:1-~15

 ホセア書 5:1‐15

  4章からホセア書の第二部に入りました。その冒頭の言葉は「主の言葉を聞け」(4:1)でありました。5章に入って、再び「聞け」という言葉が繰り返されます。神は、どれほど語ろうとも決して聞き従おうとしないイスラエルの民、目先の問題の解決や安易な救いを求めて「木に託宣を求め、その枝に指示を受ける」(4:12)ようなことをしている民に、それでもなお関わり続け、語り続けるのです。

「聞け、祭司たちよ。心して聞け、イスラエルの家よ。耳を傾けよ、王の家よ。お前たちに裁きが下る。お前たちはミツパで罠となり、タボルの山で仕掛けられた網となり、シッテムでは深く掘った穴となった。わたしはお前たちを皆、懲らしめる」(5:1‐2)。

 ここで語りかけられているのは、「祭司たち」であり「イスラエルの家」であり「王の家」です。祭司たちと王家と共に出てくるので、この場合「イスラエルの家」とは、北王国の全国民と言うよりは、長老たちなどの指導者層を指しているものと思われます。そこで上げられている三者に呼応するように、「罠となり」「網となり」「穴となった」と語られているのです。

 ここで彼らが「罠にはまった」「網に捕らえられた」「穴に落ち込んだ」者たちとして語られていないことに注意してください。彼ら自身が罠や網や落とし穴になってしまっていることが問題なのです。彼らがそうなっているということは、その罠にはまったり、落ちたりする人々がいるということです。それはイスラエルの民衆です。その結果、イスラエル全体が主に背き去ることになったのです。

 人が神に背く時、その事実はただその人のみに関わるのではありません。一人の不信仰は、必ず他の者に影響を与えることになります。一人が罠となれば、他の者がそこに落ち込むことになるのです。王や祭司が迷えば民も迷うことになるのです。一つの世代のあり方は、次の世代の歩みを必ず左右することになるでしょう。

私たちは、次の世代にとって祝福ともなり得るし、罠ともなり得るのです。イスラエルの祭司も、長老たちも、王家の人々も、神の民としての伝承と神の律法を正しく保持し、継承させる責任を負っている人々であるはずでした。しかし、そのことを正しく為しえなくなった時、彼らは「罠」となり「網」となり「穴」となったのです。この事実を、私たちもまた厳粛に受けとめねばなりません。


 そのように罠となった人々、また罠に落ち込んだイスラエルの民全体に対して、主はなおも関わられます。主は言われるのです。「わたしはお前たちを皆、懲らしめる」と。「懲らしめる」という言葉はまた、「訓練する」ことをも意味します。その目的は滅ぼすことではありません。立ち帰らせることにあるのです。主がこのように語られるのは、主が御自分の民の現実を知り尽くしておられるからです。

「わたしはエフライムを知り尽くしている。イスラエルがわたしから隠れることはできない。まことに、エフライムは淫行にふけり、イスラエルは身を汚している。彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。淫行の霊が彼らの中にあり、主を知りえないからだ」 (5:3‐4)。

 聖所の祭儀も、宗教的な日常の生活も、確かに主の名によって行われていました。しかし、何ものも神から隠れることはありません。彼らが追い求めているのは主御自身ではなく、豊穣と繁栄なのであり、彼らが願っているのは主との交わりではなく、欲望の充足でしかないことをご存じなのです。ただ淫行にふけり、身を汚すばかりの彼らの現実は、主の御目から隠れることはありません。そして、彼らはもはやその悪行によって主に立ち帰ることすらできません。淫行の霊によって捕らえられているからです。

 この「帰ることができない」という言葉は、エレミヤ書などにも繰り返し現れます。これは恐るべき言葉です。悔い改めようと思えばいつでも悔い改められる。立ち帰ろうと思えばいつでも立ち帰ることはできる。私たちがそのように考えているとするならば、それは大きな間違いです。主はここで、確かに罪のもたらす恐るべき現実を見ておられるのです。人がもはや神に帰れなくなるという現実です。それゆえに、主は言われるのです、「わたしはお前たちを皆、懲らしめる」と。主はその民を懲らしめざるを得ません。なぜなら、そのままでは、彼らは決して主に立ち帰ることはできないからです。主からの働きかけなくして、罪に捕らえられた人間が主に立ち帰ることはできないのです。

「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ。イスラエルとエフライムは、不義によってつまずき、ユダも共につまずく。彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。彼らは主を裏切り、異国人の子らを産んだ。それゆえ、新月の祭りが、彼らをも、その所有をも食い尽くす」(5:5‐7)。

 「高慢」という言葉がここに現れるのは、いささか唐突であるような気がいたします。しかし、よくよく考えて見るならば、人間の罪深い現実の根っこには、いつでも人間の高慢さ、高ぶりがあるのではないでしょうか。「高慢は人間の最初の罪であり最後の罪である」と言った人がいましたが、まことにその通りだと思います。ここで語られている高慢とは、ひたすら自分のために栄光を求めることです。高慢は、神にではなく自己に栄光を帰することです。人間の欲望は実にここに極まります。人間のあらゆる営みは、この欲求の充足へと向かっているとも言えるでしょう。しばしば、神礼拝さえもその手段や道具とされるのです。

 ですから、彼らはもはや神を見出すことができません。彼らは、羊と牛を携えて主を尋ね求めます。彼らは主の御名を唱えて礼拝を捧げます。しかし、彼らの関心は神の栄光にはありません。彼らの関心は神に向いているのではなく、最終的には自分にしか向いていないのです。そのような彼らは主を見いだすことができません。なんと、ここで「主は彼らを離れ去られた」と書かれているのです。主はその礼拝する民の間に、もはや共にはおられないというのです。

 そのままでは、主を見いだすことができず、主を知ることもできない。高慢であるままで、人は主に立ち帰ることはできません。それゆえに、神の懲らしめが必要とされるのです。神の懲らしめは、人間の求めてやまない自己の栄光へと向かいます。神の懲らしめの御手は、人間の高ぶりの心を打ち砕くために動かされるのです。

 それが具体的にどのように実現するのか。主は次のように語られます。

「ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ。ベト・アベンで鬨の声をあげよ。ベニヤミンよ、背後を警戒せよ。懲らしめの日が来れば、エフライムは廃虚と化す。確かに起こることをわたしはイスラエルの諸部族に教えた。ユダの将軍たちは国境を移す者となった。わたしは彼らに、水のように憤りを注ぐ。エフライムは蹂躙され、裁きによって踏み砕かれる。むなしいものを追い続けているからだ。わたしはエフライムに対して食い尽くす虫となり、ユダの家には、骨の腐れとなる。エフライムが自分の病を見、ユダが自分のただれを見たとき、エフライムはアッシリアに行き、ユダは大王に使者を送った。しかし、彼はお前たちをいやしえず、ただれを取り去ることもできない。わたしはエフライムに対して獅子となり、ユダの家には、若獅子となる。わたしは引き裂いて過ぎ行き、さらって行くが、救い出す者はいない」(5:8‐14)

 ホセアが見ているのは戦乱によって傷ついた国土です。すべての繁栄が失われ、廃墟となったエフライムであります。ギブア、ラマ、ベト・アベンという地名は南から北へ向かうように列挙されています。ここには南ユダが北イスラエルに侵攻している様子が描き出されています。紀元前733年、シリア・イスラエル同盟軍とユダの間に戦争が起こりました。シリア・エフライム戦争などと呼ばれます。ここに語られているホセアの預言の背後には、このシリア・エフライム戦争があると言われます。

 しかし、ここで重要なことは、イスラエルにとって本当の敵はユダではなく、ユダにとって本当の敵はイスラエルではない、ということです。彼らに敵対して行動を起こしておられるのは神御自身であると語られているのです。「わたしはエフライムに対して食い尽くす虫となり、ユダの家には、骨の腐れとなる」(12節)と語られているとおりです。

 彼らはそのことを知りませんでした。それゆえに、危機的状況の中で、大国の助けを求めます。アッシリアに行き、大王に使者を送るのです。彼らの姿と、いつでも人間に頼って安易な解決を求めようとする私たちの姿が重なります。しかし、彼らにとって本当の危機は戦乱の中にあるのではないのです。神との正しい関係が失われていることにこそあるのです。彼らが罪のうちにあることこそ、最大の危機なのです。ですから、アッシリアに頼ることは最終的な解決にはならないのです。「彼はお前たちをいやしえず、ただれを取り去ることもできない」(13節)のです。

 神は、そのようなエフライムに対して獅子のように、ユダに対して若獅子のように行動されます。獅子が獲物を引き裂くように、神は彼らを引き裂かれるのです。何と恐るべきことでしょう。しかし、それは彼らを滅ぼすためではありません。主は彼らを捨ててしまわれたのではありません。神の望んでおられることは、人が神に立ち帰ることなのです。人がもはや立ち帰ることができなくなっているゆえに、神は懲らしめの業を通して、高慢さを打ち砕き、罪を認めることができるようにし、立ち帰るための道筋をつけられるのです。

 それゆえ、主はこう言われるのです。

「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」(5:15)。

 神が人を苦しみの中に置かれるとするならば、その苦しみには意味があります。彼らにとって、苦しみの中に置かれたのは、そこで自分の罪を認めることができるようになるためでありました。人がそこから主を尋ね求め、捜し求めるようになることを、主は何よりも望んでおられるのです。その御手に罪の赦しの恵みを携えて、主は待っておられるのであります。


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