2024年11月27日水曜日

祈祷会用:レビ記 25:1~17

 レビ記 25:1‐17

 25章には安息の年とヨベルの年に関する規定が記されています。その前半部分を群読しました。今日、私たちは、これらを命じられた主の意図がどこにあり、それが私たちにとって何を意味するのかを、御一緒に考えたいと思います。

 「安息の年」という言葉は、私たちに耳慣れない言葉であるかもしれませんが、これが私たちの良く聞く「安息日」と関連があることは明らかです。そこでまず「安息日」についていかなることが語られていたかを思い起こしてみることにしましょう。「安息日」については、十戒の中に次のように定められていました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出20:8‐10)。

 「安息日」という言葉は、「中止する」という言葉に由来します。考えてみれば、まことに不思議な命令です。「怠けずに働き続けろ」と命じるのではなくて、「働くことを中止せよ。休め。働いてはならない」と主は命じられるのです。聖書の神は、自ら休み、私たちに休むことを命じられる神なのです。

 神が休みを命じられるのは、ただ私たち自身の休息のためだけではありません。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(同10節後半)と書かれています。これは何を意味するのでしょう。申命記のほうでは、その意図がより明確に記されています。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:14)。つまり、この命令は、周りの人々をも解放し、休ませるためでもあるのです。休まない人がいると、周りの人々は休めないのです。特に奴隷など、弱い立場の人は休めません。だから、神はあえて他者を解放して「休ませる」ためにもあなたが「休みなさい」と命じられるのです。

 このように見てきますと、本日の箇所に記されています「安息の年」に関する律法は、「安息日」の律法の意図を、さらに拡張したものであることが分かります。解放して休ませるべきであるのは、奴隷や家畜までに留まりません。土地もまた休ませなくてはならないと言うのです。「七年目には全き安息を土地に与えねばならない」(4節)と主は言われるのです。そのためには、七年に一度、人間が休まなければなりません。種を蒔くことを休み、耕すことを休み、ぶどう畑の手入れを休むのです。

 では、その間に自然に生えたものはどうするのか。「休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない」(5節)と書かれています。これは食べてはいけない、という意味ではありません。土地の持ち主が「この土地は私のものだから、そこに生じたものも私のものだ!」と主張して自分たちだけのためにそれらを集めてはならないということです。

 食べることはかまわないのです。ただし皆で仲良く分け合って食べなくてはならない。「安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」(6‐7節)とはそういうことです。このように、「これは私のものだ!」という人間の所有者意識から解放されてこそ、初めて土地は完全に安息できるのです。これが安息の年に関する律法です。

 そして、このことをさらに徹底したのが「ヨベルの年」に関する律法です。安息の年が七回繰り返され49年を経たその翌年、50年目には、さらに徹底した解放と安息の年である「ヨベルの年」がおとずれるのです。ヨベルとは雄羊の角のことです。「その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(9‐10節)。

 このヨベルの年には、通常の安息の年のように、土地に安息が与えられるだけではありません。土地はすべてもとの所有者に戻されるのです。貧しさのゆえに先祖から受け継いだ土地を手放さざるを得なかった人は、その土地を離れなくてはなりません。土地を失った家族は生きるための糧を得なくてはなりませんから、必ずしも先祖伝来の土地で生活していたように、家族一緒に生活できるとは限りません。しかし、ヨベルの年には、その土地の返却を受け、離れて生活していた人も家族のもとに帰ることができるのです。

 これらのことに伴い、すべての負債が免除され、貧しさのゆえに身売りした人も解放されます。このようにして、土地だけでなく、人間もまた解放されるのです。それはただ債務を負っていた者だけが解放されるという意味ではありません。そこには債権者の解放もあります。そこには、あらゆる所有欲からの解放もまた起こるのです。

 このようにして、社会の中に生じた貧富の格差が五十年に一度是正されることになります。はたして、実際にこのようなことがイスラエルにおいて行われたのでしょうか。そのことに関する学者の見解は否定的です。しかし、少なくとも、神が求めておられることを理解することは重要です。神が求めておられるのは、土地が完全に原状に戻され、完全な安息を与えられることです。そして、その土地の上で、人間もまた解放され完全な安息を得ることです。そのようにして新たに皆が共に生きられるようになることなのです。それがヨベルの年に関する律法です。

 さて、私たちはここで、安息の年とヨベルの年に関する律法の根底にある信仰そのものに目を向けることにいたしましょう。安息の年やヨベルの年の律法について考えます時、当然のことながら次のような問いが生じてくるに違いありません。「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか」(20節)。そうです、この世の声は言うのです。「神の言葉に従うなんてことを言っていて、現実生活が成り立つものか。そんなことを言って、食べていけるものか」と。

 しかし、神の言葉は私たちにこう語ります。「わたしがあなたがたを養い生かすのだ」と。次のように書かれております。「わたしは六年目にあなたたちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは八年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を得るまでそれに頼ることができる」(21‐22節)。七年目には種を蒔きません。八年目に種を蒔いたとしても、すぐに収穫できるわけではありません。しかし、それに先立つ六年目に、二年分余計に収穫を与えると主は言われるのです。人に命じる神は、備えてくださる神でもあるのです。信頼し従うことを求める神は、信頼する者を支えてくださる神でもあるのです。

 そして、さらに収穫を生じさせる土地そのものが主のものなのだ、と語られております。「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない」(23節)。レビ記の言葉が語られている場面は、まだ約束の地に入る前です。イスラエルの民は荒れ野にいるのです。ならば、与えられると約束されている土地が、本質的には彼ら自身に属してはいない、ということは良く分かるはずです。それは主のものなのであり、彼らはその土地の上に寄留させていただき、土地を利用させていただく者に過ぎないのです。

 大事なことは、実際に約束の地に入っても、そのことを忘れないということです。そのためにも、この安息の年とヨベルの年の律法は大きな意味を持っているのです。なぜなら、安息の年にしても、ヨベルの年にしても、そこで命じられていることは、何ら特別なことではなく、結局は《主のものを主のものとして生きる》ということに尽きるからです。

 さて、このように約束の地の上に寄留し滞在する者とされたイスラエルの民は、この世界の中に生かされている人類全体の縮図であると言えるでしょう。この世界は神の創造された世界です。神の創造ということを考えない人でありましても、少なくともこの世界が本質的に人間に属するものではないことは認めざるを得ないでしょう。これは人間が造った世界ではないからです。私たちは、そこに滞在することを許されている寄留者に過ぎません。神は恵み深く、私たちをこの世界に住まわせ、そして私たちを養い、生かしてくださっています。この世界を我がもののようにして生きているところに、私たち人間の罪があります。本当の解放と安息は、この世界を主のものとして生きるところにこそあるのです。

 といころでイエス様は、ナザレの会堂において預言者イザヤの書を朗読されました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。主の恵みの年とは「ヨベルの年」のことです。そして、イエス様はこの朗読の後に、こう宣言されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)。このように、まことにイエス様は、私たちを救い、本当の解放と安息を与えるためにおいでくださったのです。


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