2022年7月31日日曜日

「巨人を倒した少年の話」

サムエル記上 17:38‐50

生ける神の戦列に挑戦するとは、何ものか

 
 今日の説教題は「巨人を倒した少年の話」です。巨人の名はゴリアトと言います。時は紀元前11世紀。その頃、イスラエルの一部を占領し、イスラエルにとって大きな脅威となっていたのはペリシテ人でした。その巨人ゴリアトは、イスラエルに敵対するペリシテ軍の戦士です。聖書の記述によるならば、背丈は六アンマ半、すなわち約3メートル。約60キロの鎧を身にまとい、穂先だけでも7キロもある巨大な槍を振り回す怪物です。一方、対する少年の名はダビデ。エッサイの8人の息子たちの中の末っ子でした。彼は後にイスラエルの王となる人物ですが、この時点ではまだ兵士として招集すらされていない羊飼いの少年です。

 今日の聖書箇所が伝えているのは、そのような巨人ゴリアトと少年ダビデの一騎打ちです。しかし、戦いそのものの記述は長くありません。勝負は実にあっけなく決まってしまうのです。実は、この話は17章の初めから始まっています。むしろこの物語で長々と書かれていますのは、この一騎打ちに至るまでの経緯なのです。そちらに重きがあるのです。特に、そこで少年ダビデが多くの言葉を語ります。彼の語っている言葉こそが重要なのです。

 そもそものきっかけは、羊飼いであるダビデが戦場に赴いたところにありました。彼は兵士ではありませんから、戦場に行ったのは、戦いのためではありませんでした。兵士として戦っている兄たちに食料を届けるためであり、また、安否を確かめるためでした。

 ダビデは持参した食料を武具の番人に託し、戦列の方に走って行って兄たちの安否を尋ねます。するとその時、あの巨人ゴリアトが現れてこう叫んだのです。「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ」。実は、毎日のように彼は現れて、同じ言葉を叫んでいたのです。そして、「サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた」(11節)と書かれているのです。

 その時ダビデが見たのも、ゴリアトの言葉にイスラエルの兵士たちが恐れおののいて後ずさりする姿でした。そこでダビデは周りの兵士たちにこう尋ねたのです。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」(26節)。

 羊飼いの少年が生意気にもこんなことを言っていたら、それは実に腹立たしいことでしょう。実際、これを聞いた長男のエリアブは怒ったのです。無理ありません。戦ったこともない少年が「あのペリシテ人を打ち倒したら何をしてもらえるのですか」などと言っているのですから、それはダビデの思い上がりにしか見えなかったのです。「お前の思い上がりと野心はわたしが知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう」と言ってエリアブはダビデを叱りつけます。

 しかし、ダビデの語ったその言葉を心に留めて、サウル王の耳に入れた者がありました。サウルとしては、ともかく誰かが挑戦に応じて立ってくれるのを待ちわびているわけですから、すぐさま、その言葉の主を召し寄せたのでした。

 召し寄せられてサウル王の前に立ったダビデはこう言いました。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう」(32節)。しかし、そう口にしているのは、どう考えても巨人ゴリアトと戦うことができるような男ではありません。サウルは言います。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ」。

 しかし、ダビデは、一人の羊飼いとして、このように語ったのです。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるに違いありません」(37節)。これが今日の聖書箇所の直前に書かれているダビデの言葉です。

 そこに語られていますように、ダビデの言葉は決して彼の思い上がりから出た言葉ではなかったのです。そうではなくて、彼は彼の信仰に基づいて語っているのです。そして、正確に言うならば、それは単に彼個人の信仰ではないのです。イスラエルが歴史を通じて伝えてきた信仰なのです。

 ダビデがゴリアトを目にした時、彼はこう言っていましたでしょう。「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」。――そうです、イスラエルが伝えて来た信仰の物語は、「生ける神」の物語だったのです。生ける神が、エジプトの奴隷を導き出し、生ける神が荒れ野の旅を導かれ、生ける神が約束の地を彼らに与え、そして、小さく弱いイスラエルを、生ける神が繰り返し救い出された物語なのです。彼らは生ける神への信頼と、神の力による勝利の物語を代々伝えてきたはずなのです。

 しかし、イスラエルが紀元前11世紀に王国となりました。それはペリシテ人の脅威に対抗するためでした。初代の王はサウルです。王制に移行すると何が変わるのか。王が戦士を召し抱え、王のもとに常備軍が組織されるのです。軍隊においては人間の数と力がものを言います。人々の思いが、人間の数と力による戦いにしか向かなくなった時、彼らは「生ける神」を本当の意味で口にすることもなりました。神の話は神の話。現実は現実。そこで「生ける神の戦列に挑戦するとは、一体何者か」というようなことを本気で口にするのは、一人の羊飼いの少年以外にはいなかったのです。

 イスラエルが伝えて来た、生ける神の物語。それはダビデにとって、単なる昔話ではありませんでした。彼はいにしえの物語を、普段の日常生活の中で、羊飼いとしての生活の中で、実際に生きてきたのです。獅子との戦いにおいて、熊との戦いにおいて、彼は日々神に依り頼んで生きてきたのです。そして打ち勝った時、それは自分の強さによるのだとは微塵も思わなかったのです。彼は伝えられてきた信仰の物語の中に自らを置き、生ける神の物語を、日々の生活において実際に生きてきたのです。

全会衆は知ることになるでしょう
 さて、「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるに違いありません」というダビデの言葉を聞くと、サウル王は言いました。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」そう言って自分の装束をあてがいました。ダビデの頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせ、サウルは自分の剣をダビデに渡しました。

 しかし、ダビデは、一旦はそれらを身に着けたものの、「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから」と言って、結局はそれらをサウルに返したのです。ダビデはそれらを脱ぎ捨てますと、羊飼いとして慣れ親しんだ自分の杖を手に取りました。そして、彼は川岸に下って行き、いつものように、なめらかな石を五つ選んで、羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして出て行きました。

 サウルの鎧と剣を返したこと、そして自分の杖を手にして出て行ったことは何を意味するのでしょう。――サウルがあてがうものは、この戦いにおいて何の役にも立たなかったということです。それはある意味では象徴的な出来事でもありました。民衆が求め、サウル王のもとに整えられた軍隊は、この戦いにおいては何の役にも立たなかったのです。ダビデは武力によって戦うのではないのです。ダビデは戦士として出て行くのではないのです。ダビデはあくまでも羊飼いとして出て行くのです。ダビデにとって、公の場における戦いは、生ける神と共に生きる日々の生活の延長以外のものではないのです。

 ダビデは鎧や兜について言っていましたでしょう。「慣れていませんから」。そうです、「慣れている」必要があるのです。言い換えるならば、生ける神と共に生きる日々の生活において身に着いたものこそが、危機的状況においては決定的な意味を持つということです。「慣れていない」ものは、いざという時には役に立たないのです。

 こうしてダビデはゴリアトの前に立つこととなりました。ゴリアトは出てきたダビデを見て侮って言います。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか」。こう言って、ペリシテの神々の名によってダビデを呪いました。しかし、ダビデはゴリアトに言い返します。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」。そして、47節において彼はこう宣言するのです。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」。

 ここで「ここに集まったすべての者」と訳されていますのは、他の箇所では「全会衆」と訳されている言葉です。すなわち全イスラエルを指す言葉なのです。つまり、単にそこにいた者たちという意味ではなくて、神の民であるイスラエル全体が知ることになる、と語られているのです。言い換えるならば、このことを通して、全イスラエルが知らなくてはならないことがある、ということです。

 戦いそのものは、次のように描かれています。「ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった」(49-50節)。実にあっけないダビデの勝利です。しかし、先にも言いましたように、ダビデが勝ったこと自体が重要なのではありません。そこにはダビデが言うように、全イスラエルが知らなくてはならないことがあるのです。

 それは47節にあるように、「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」ということです。そのことを知るとは何を意味するのか。主がまことに生ける神であることを知るということです。それは、彼ら自身が、生ける神の物語の中に、一度身を置いて生きるようになるということなのです。

 そして、そのことはここにいる私たちにも語られていることなのでしょう。ダビデは巨人ゴリアトを打倒しました。そして、ダビデの末なるキリストは、さらに大いなる敵である罪と死の力を打ち倒されました。私たちにも聖書を通して生ける神の物語を伝えられているのです。そこで私たちはどうするのでしょう。聖書は聖書、現実の生活は現実の生活。――もしそうなってしまっているならば、私たちも改めて知らなくてはなりません。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない」ということを。生ける神の物語の中に私たち自身も身を置いて生きる者とならせていただきましょう。
(祈り)

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