エゼキエル書37:1‐14
我々の骨は枯れた
今年の聖霊降臨祭においては、第一朗読においてエゼキエル書が読まれました。今日は特に、預言者エゼキエルを通して語られた神の言葉に耳を傾けたいと思います。
預言者エゼキエルは預言者エレミヤとほぼ同時代の人です。共にユダ王国滅亡の時代を生きた預言者です。彼とエレミヤの大きな違いは、エレミヤが主にエルサレムで活動したのに対し、エゼキエルが捕囚の地において活動した預言者であったところにあります。ヨヤキン王と共に上層階級の人々がバビロンに移された第一次バビロン捕囚の際、エレミヤはエルサレムに残され、一方のエゼキエルは捕囚民と共に捕囚の地へ捕らえ移されました。そして、その地において、エゼキエルは預言者としての召しを受け、捕囚民の間において神の言葉を語り始めたのです。捕らえ移されて5年ほど経った頃のことでした。
その時点では、まだエルサレムは破壊されてはいませんでした。神殿も残っていました。ダビデ王家もまだ存在していました。ヨヤキム王も捕囚ではありますがまだ生きています。それが捕らえ移された人々の希望でした。エゼキエルが活動していたその頃、解放と救いを語る預言者は少なくありませんでした。そして、人々は彼らの言葉に熱狂的に耳を傾けたのです。必ず自分たちはエルサレムに帰還することができる。必ず元の生活に戻れる。そう信じて、希望を抱き続けたのです。
しかし、彼らが帰還を夢見ていたエルサレムは、それから十年も経たない内に、バビロン軍に包囲され、陥落することとなりました。都の城壁は徹底的に破壊され、神殿も焼き払われてしまいました。そして、その知らせがやがて捕囚の地の人々にも伝えられることとなりました。人々は深い絶望の淵に叩き落されることとなりました。そんな人々の言葉が、今日お読みした11節にも記されています。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」(11節)。そのような人々に対して預言者はいったい何を語れば良いのでしょうか。神はその答えをエゼキエルに幻をもって示されたのでした。
「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」(1‐2節)。そのように、エゼキエルは幻の中で、骨に満ちた谷の中に連れていかれます。そこには非常に多くの骨がありました。わざわざ「それらは甚だしく枯れていた」と書かれています。イスラエルには、死んだ後三日間は死んだ人の魂が屍の周りを漂っているという俗信がありました。死んで間もなくならばまだ希望はある。しかし、そこにあったのはすべて枯れた骨なのです。すなわちもはやまったく希望がないということを意味します。完全な死の支配がそこにあるのみです。
11節において神がこの幻を説明しています。「これらの骨はイスラエルの全家である」と言われています。イスラエルの人々は「我々の骨は枯れた」と言っているのです。その時、神もまた、彼らが枯れた骨であることに同意するのです。「これらの骨はイスラエルの全家である」と。もちろん、人々が「我々の骨は枯れた」と言っても、実際に枯れているわけではないでしょう。あくまでも比喩的な表現です。絶望をそう表現しているだけです。しかし、神が彼らの言葉に同意して、「これらの骨はイスラエルの全家である」と言われる時、それはもはや比喩的表現ではないのです。神は知っているのです。彼らは、本当に枯れた骨なのだということを。つまり、彼ら自身の内には本当の意味で全く希望がないということです。なぜなら、彼らの絶望は彼ら自身の罪から来ているからです。そのことを一番良く知っているのは神御自身なのです。
エルサレムが陥落したということは、人々にとっては災いなのでしょう。悲劇的な出来事なのでしょう。しかし、本当は単なる災いでも悲劇でもないのです。そうではなくて、それは神の裁きのもとにおいて、彼らの罪が明らかにされた出来事なのです。預言者が呼びかけても、耳を傾けようとはしなかった。神が「立ち帰れ」と語ろうとも、神に背を向け、神から離れたままだった。まさにそのようなイスラエルの全家が神に裁かれた出来事なのです。彼らの状態は、彼らが認識しているよりも本当はずっとずっと深刻なのです。神から見るならば、彼らは本当に枯れた骨だからです。
さらに言うならば、彼らは、エルサレムが陥落して、初めて枯れた骨になったのではないのです。むしろ、神に逆らい、神の言葉に逆らい、神から離れていた時に、彼らは既に死んでいたのです。罪の内に死んでいたのです。エルサレムが陥落して国が滅びたのは、既に死んでいたことが明らかになったに過ぎないのです。もともと絶望的な状態にあったのです。その絶望が表に現れたに過ぎないのです。
枯れた骨に預言せよ
しかし、その希望のない枯れた骨について、主はエゼキエルに問うのです。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と。エゼキエルは答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。エゼキエルの答えは、単に「全く絶望的です」ということを言い換えているに過ぎません。人間の側から見るならば望みはどこにもないのです。絶望です。ならば神の側にそのまま返すしかありません。「あなたのみがご存じです」と。
そこで、神はエゼキエルに命じられます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」(4‐5節)。その映像を思い描いてみてください。文字通り骨に語りかけている人がいたとすれば、それはまったく意味のないことのように見えるではありませんか。しかし、神の言葉をイスラエルに語るということは、まさにそのようなことに他ならないのです。
いや、本来、イスラエルに限らず、人間に神の言葉が語られるということはそういうことなのでしょう。神の言葉が語られるということは、単に悪い者が良き者になるための教えが語られるといった類のものではないのです。人間は、何か良いことを教えられて、より良い者になればなんとかなるという状態にはないのです。枯れた骨は枯れた骨なのです。少しばかり手直ししても枯れた骨なのです。
骨に語ることにもし意味があるとするならば、それは神の言葉が語られるところにおいて、神の霊が働くからです。語る行為そのものが人を生かすのではありません。語られた言葉の説得力や影響力が人を生かすのではありません。神の霊を通してなされる神の御業が人を生かすのです。神が生き返らせるのです。最初の創造において、土から作られた人に神が息を吹き込むと、その人は生きる者となりました(創世記2:7)。同じように、神から離れ、罪のために死んでいた人間を再び生かすのは神の霊の働きによるのです。
エゼキエルは命じられたように預言しました。白骨死体の群れに語りかけているエゼキエルの姿を想像してみてください。彼の行為は客観的に見るならば愚かな行為でしかありません。語る者は自らの行為の無力さを知りつつ語ります。それはいつの時代の預言者も同じでした。今日教会において語られる説教においても同じです。福音の宣教は、それ自体の無力さを常に伴う務めなのです。パウロが「宣教という愚かな手段」(1コリント1:21)と表現しているとおりです。
しかし、その一見愚かに見える行為を通して事が起こり始めます。「わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」(7‐8節)。神の言葉が語られる時に、現実が動き始めるのです。死んでいたものが、再び生きている者の形を取り始めるのです。しかし、それはまだ準備段階です。人間の形となったとしても、命はまだその内にはありません。「しかし、その中に霊はなかった」と続いているとおりです。
本当に重要なのはその後に起こることです。主はエゼキエルに「霊に預言せよ」と言うのです。彼は命じられるままに預言します。「すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(10節)と書かれております。ここではじめて「生き返った」と表現されるのです。神の霊が来る時に、生き返るのです。
「枯れた骨は生き返るか」。今日の説教題ですが、今日の聖書箇所ははっきりと「その通りである!」と私たちに答えてくれています。第2朗読は、毎年聖霊降臨祭において耳にしている箇所ですが、ここにおいても私たちははっきりと、「枯れた骨は生き返る」という事実を語り聞かされているのです。
イエスを見捨てて逃げ去った弟子たち。そのような形において、神の子を十字架へと追いやった自らの罪と向き合わされた弟子たち。まさに神から見て枯れた骨でしかない自分たちであることを思い知らされた弟子たち。その彼らが再び集められたのです。カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた。そして、人の形となっていったのです。その彼らの内に天からの霊が降ったのです。枯れた骨の集まりでしかなかったものが、生きた神の民となりました。それが教会の誕生であると聖書は私たちに伝えているのです。それが教会の宣教の始まりです。
その宣教の歴史の先に私たちが今いるのです。教会の歴史は、枯れた骨が生き返らされてきた歴史です。宣教によって、神の霊のお働きによって、枯れた骨が神の民として生き返らされてきた。私たちもそこに加えられました。枯れた骨でしかなかった私たちが、生き返らされてそこに加えられました。ならば、私たちは神の霊によって生かされた神の民として、どのように歩んだらよいのでしょうか。