サムエル記上 16:1-23
サウルはアマレクとの戦いに際して、すべてを滅ぼし尽くすようにサムエルを通して主から命じられました。しかし、サウルはその言葉に聞き従いませんでした。「しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」(15:9)と書かれています。
それは王として極めて現実的な判断でした。アマレクに勝ったとしても、なおペリシテ人との戦いは続きます。むしろそちらの方が脅威なのです。そのためにも、兵士たちの志気を高めておかねばなりません。そのためには兵士たちへの報償は不可欠です。そのことを考えるならば、戦利品を奪わずに滅ぼし尽くすわけにはいきません。実際、兵士たちからもそのような声が上がっていたのでしょう。サウルはその声に従い、上等なものを残します。そして、「兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです」(15:21)と言い繕ったのでした。
しかし、どのように外面を敬虔に繕ったとしても、神様の目は誤魔化せません。サムエルはサウルに対してこう宣言します。「主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」(15:23)。
15章の最後にはこう書かれています。「サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた」(15:35)。アマレクに対して大勝利を収め、サウルをはじめ、イスラエル全体は戦勝気分に酔いしれていたことでしょう。しかし、そのような中、サムエルはひとり嘆いていたのです。
「主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」という宣言がなされて悲しんでいたのはサムエルだったのであり、サウルではありませんでした。神によって退けられるということが、いかに悲しむべきことであるかを本当に知っていたのはサムエルであって、サウルではありませんでした。サウルが心配していたのは神と決裂することではなくて、サムエルと決裂することでした。いや、正確に言えば、サムエルと決裂することによって自分の王位が危うくなることでした。だから表面上はサムエルとの決裂を取り繕うことができ、ひとまずは王位が保たれることとなれば、あとはサムエルが死ぬまでサウルと会おうとせずとも、サウルにとっては大した問題ではなかったのです。
さて、サムエルが嘆き悲しんでいる間に、主は既に事を先に進めておられました。主は言われます。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」(1節)。油を注ぐという行為は、サウルの時にも見ましたように、神が王を任職する行為です。エッサイの息子の一人を王に任職せよと主は言われたのです。
かつてサムエルはそのようにしてサウルに油を注ぎました。しかし、今回は事情が違います。サウルが王位にある間に、新たな王を任職することが何を意味するかは明白でした。それはクーデターを煽動したものとみなされる行為なのです。つまり、どれほど民衆がサムエルを尊敬していたとしても、公にサムエルを処刑することのできる正当な理由をサウルに与えることになるのです。
それゆえサムエルは行くことをためらいます。すると、神はサムエルに事柄を隠すための知恵をさずけました。主にいけにえをささげるために町に入り、そこにエッサイを招けというのです。それは単にサムエルの身の安全を守るためではありませんでした。新しい王が、神の時が来るまで、すなわち準備が整うまで、隠されているためでもあるのです。
サムエルが主に言われたようにベツレヘムに着きますと、長老たちは不安げに出迎えました。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」。どんなにサウルが取り繕ったとしても、サムエルとサウルの決裂は人々の知れるところとなっていたのだと思います。しかし、民の長老たちは、ともかく何事もなく平穏無事に時が過ぎることを望んだのです。信仰的な観点からサウルに多少の問題があったとしても、サムエルには事を荒立てないで欲しいと思っていたのです。
ましてやベツレヘムを拠点にクーデターなど起こされたら、それこそやっかいなことに巻き込まれることにもなりかねません。だから「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」と不安げに尋ねたのです。サウルと神との関係はどうであれ、何事もなければ、それに越したことはないのです。
サムエルは主に与えられた知恵に従って、「主にいけにえをささげに来ました」と答えました。そして、いけにえの会食にエッサイとその息子たちを招いたのです。サムエルは、長男のエリアブに目を留めました。そして、彼こそ主の前に油を注がれる者だと思ったのです。しかし、主は言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。
さらに、サムエルは、エッサイの子らをひとりずつ、自分の前を通らせました。そこにいた七人の子らのいずれも、主の選ぶところとはなりませんでした。サムエルは尋ねます。「あなたの息子はこれだけですか」。エッサイは答えました。「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」。その末の子こそ、後の王となるダビデでした。その子が連れてこられると、主は言われました。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」と。
神の選びは人の選びと異なります。七は完全を表す数字ですので、八番目はいわば余りものです。しかし、主はそのような人を選ばれるのです。サムエルはダビデに油を注ぎました。「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」と書かれております。サウルの時と同じです。そのように、ダビデが王とされることも、ダビデの才能や野心によるのではなく、まったく神によるのだということが示されています。もっとも、ダビデが実際に王となるのはこの十数年後です。王となるためには、主の霊が降るだけでなく、彼はなおも厳しい訓練の時を経なくてはならなかったのです。
さて、一方サウルについては、「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」(14節)と書かれています。「主から来る悪霊」というのは奇妙な表現ですが、それは大事なことを示しています。つまり、サウルを責めさいなむ苦しみが、ただ彼の置かれている状況や病気によるのではなく、根本的には神との関係の亀裂から生じていることが、このような表現によって言い表されているのです。
この苦しみを見て、家臣は次のように提案します。「王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう」。サウルは、その提案どおりに命じて、竪琴の名手を探させます。こうして連れて来られたのは、先に油を注がれたダビデでありました。彼については従者が「まさに主が共におられる人です」(18節)と表現しています。
主の霊が離れてしまったサウルと主が共におられるダビデ。神によって既に王位から退けられているサウルと、神によって王に任職されているダビデ。その出会いはこうして実現しました。実に皮肉な出会いであるとも言えます。
サウルはそこで、自分が「神からの悪霊にさいなまれている」という言葉を家来から聞いています。一方、ダビデについては「主と共におられる人」という言葉を従者の一人から聞いています。しかし、不思議なことに、サウルはそのことでダビデを妬んだりはしていないのです。
後にサウルがダビデを妬むようになります。しかし、それは、ダビデが手柄を立てた時に女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という歌をうたっているのを聞いてからです。要するに、サウルにとっては王権を脅かされるかどうかが重要なのであって、王の位が脅かされない限り、神との関係など、サウルにとってはどうでもよかったのです。
それゆえに、「神からの悪霊」にさいなまれた時にも、彼が求めていたのは、神との関係が修復されることではなく、ただ一時的にでも気分が良くなることでしかなかったのです。「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた」(23節)。しかし、これは根本的には何の解決にもなってはいないのです。
そのように、今日も多くの人が手軽な「癒し」を求めます。しかし、一時的に気分が良くなることよりももっと大事なことがあることを、サウルの姿は私たちに教えているのです。
2025年9月3日水曜日
祈祷会用:サムエル記上 16:1~23
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