2020年5月10日日曜日

「新しい心、新しい霊」

エゼキエル書 36:24‐28

恵みの上にある生活
 「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」(24節)。そう語られていました。「すべての地から集め」と言われているのは、すべての地に散らされているからです。「お前たちの土地に導き入れる」と言われているのは、実際には自分の土地から離れたところに散らされているからです。

 ここで「お前たちの土地」と言われていますが、その土地はもともと彼らの土地ではありませんでした。彼らはもともとエジプトの奴隷だったのです。その奴隷であった民が神によって解放され、エジプトから導き出され、荒れ野を導かれ、やがて神が約束されたその土地に導き入れられたのです。

 それは聖書において「乳と蜜の流れる地」と呼ばれる豊かな土地でした。そこに導き入れられたのは、彼らがそれを受けるに相応しかったからではありませんでした。彼らがエジプトから導き出されたのも、約束の地を与えられたのも、すべては神の恵みによったのです。その土地の上に営まれる生活は、まさに神の恵みの上に成り立っている生活でした。

 そのように、神の恵みによって与えられた生活であるならば、大切なことは神の恵みに応えて生きることなのでしょう。ですから、約束の地に入る直前に、モーセはこう言っているのです。

 「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(申命記6:10‐13)。

 恵みに応えて生きるとはこういうことでしょう。今の生活を恵みによって与えてくださった御方を決して忘れないこと。その御方のみを畏れ、その御方に仕えること。「仕える」とは「礼拝する」という意味です。主を尊び、畏れ敬い、主を礼拝して生きること。それが恵みに応えて生きるということです。

恵みを踏みにじった人々 しかし、今引用したようなモーセの言葉が、こうして書き残されているのはなぜなのか。――それはいつの時代においても、主を忘れるということが起こり得るからでしょう。人がどんなに大きな恵みを受けても、その御方を忘れるということは起こり得るのです。どんなに大きな恵みを受けても、与えてくださった方を尊びもせず、感謝もせず、礼拝することもなくなる。そのようなことは起こり得ることです。そして、事実そのようなことが繰り返しイスラエルにおいて起こったのです。

 エゼキエル書に戻ります。今日お読みした箇所の少し前にはこんなことが書かれています。「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した』」(16‐17節)。彼らは恵みの上に生活していたのに、その恵みを象徴する土地を「汚した」というのです。言い換えるなら、神の恵みを踏みにじったということです。何によって。「自分の歩みと行い」によってです。そうです、人は恵みの上に生活させていただいていても、自分の歩みによってその恵みを踏みにじって汚すようなことをするのです。

 その後に、「自分の歩みと行いによって汚した」ということが、別の表現で言い換えられています。「彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである」(18節)。「血を流す」とは他の人間を傷つけること、さらには殺すことです。「偶像によって」とは、神ならぬものを神とすることによって、ということです。他の人間を人間として大切にしないこと、神を神として大切にしないこと。人を人とせず神を神としないこと。恵みを与えてくださった神を忘れたそのような生活によって、そのような歩みによって、人は神の恵みを踏みにじり汚すのです。それがイスラエルの歴史において起こったことでした。

 その結果どうなったのでしょう。「わたしは彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた」(19節)と書かれています。彼らは恵みによって与えられた土地を汚したので、その土地を失うことになりました。恵みを踏みにじるなら、恵みを失うことになるのです。恵みの上に成り立っていた生活を失うことになるのです。

神の赦しにより再び恵みの中へ
 しかし、そのような人々に対して、主は今日の聖書箇所でこう語っておられるのです。「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」。彼らは確かに土地を失いました。しかし、土地そのものが消えて無くなったわけではありません。しかも、それは依然として「お前たちの土地」と呼ばれているのです。

 彼らは恵みの上に成り立っていたかつての生活を失いました。しかし、恵みそのものが無くなってしまったのではありません。神は彼らの土地に再び導き入れることがおできになる。赦しの神は、罪を赦して恵みの中に再び導き入れることがおできになるのです。神は人が恵みを失ったままでいることを望んではおられないのです。人を恵みの中に導き入れ、人を恵みの中に回復することを望んでおられるのです。聖書が私たちに伝えているのはそのような神様です。「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」と言われる神なのです。

 そのようにイスラエルは神に赦され、再び自分たちの土地に入れられます。もちろん、それは必ずしも元の生活が直ちに回復することを意味しません。この36章には繰り返し「廃墟」という言葉が使われています。そうです、彼らが再び自分たちの土地に導き入れられるなら、そこで廃墟を目にすることになるのです。廃墟とは何か。罪の結果です。人は罪の結果を見ることになる。罪は赦されても廃墟は残るのです。

 そのように、イスラエルは自分たちの土地に導き入れられても、そこで廃墟を見ることになるのです。しかし、そこではまた逆のことも言えるのでしょう。イスラエルはそこで廃墟を見ていたとしても、すでに自分たちの土地の上にいるのです。神によって罪を赦していただいたのなら、たとえ廃墟のような現実を目にしていたとしても、既に恵みの中にあるということもまた事実なのです。だから既に恵みの中にあることを信じて生きたらよいのです。そして、恵みの中にあるならば、神が廃墟を建て直してくださると信じたらよいのです。神が恵みの上に営まれる生活を回復してくださる、と。

わたしの霊をお前たちの中に置く
 そのように、神が廃墟を建て直してくださいます。36章の最後にはそのような神の約束が書かれているのです。

 しかし、今日の聖書箇所は、それ以上に大事なことがあるのだということを私たちに伝えています。神が廃墟を建て直してくださるということは、ただ元通りにしてくださることを意味しないのです。ただ失われたかつての生活が戻ってくるということを意味しません。神が望んでおられるのは廃墟が変わることではなくて、廃墟をもたらした人間が変わることなのです。恵みを踏みにじって生きてきた人間そのものが変わることなのです。神は廃墟を建て直すこと以上に、人間が変わることに関心を持っておられるのです。

 それゆえに主は言われるのです。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(25‐27節)。

 これが神の望んでおられることであり、行おうとしていたことなのです。ならばエゼキエルの言葉を聞く人々もまた、廃墟が建て直されること以上に、このことをこそ願い求めなくてはならないのでしょう。そのようにして、彼らは約束の地の上で、神の民として再び生きることができるのです。「お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」(28節)と書かれているとおりです。

聖霊降臨祭に向けて
 「早くコロナ禍が収束して、みんなが教会に集まれるようになりますように」。――現在、世界中の教会で口にされている祈りだと思います。そして、廃墟を建て直したもう神様は、再び礼拝堂に集まることができるようにしてくださるに違いありません。

 しかし、だからこそ、もっと大事なことがあるのだということをエゼキエル書から私たちは聞かなくてはならないのでしょう。神様にとって、礼拝堂に人が集まって聖餐を行えるようになること以上に重要なことは、恵みを踏みにじって生きてきた私たちそのものが変えられることであるはずなのです。そこにこそ真の回復はあると言えるのでしょう。私たちが何も変わらず以前のままで、ただ再び集まれるようになったとしても、それは聖書が語る回復とは何の関係もありません。

 「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」。また、「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と、神様はそう言ってくださいました。そして、その神の御心は、長い時を経て、あのイエスの弟子たちの内にもはっきりと現された事実を、私たちは知らされているのです。キリストの復活から五〇日目。五旬祭の日の出来事でした。その日を記念して、私たちは毎年聖霊降臨祭を祝います。その日が今年も近づいてきました。

 散らされた姿で、私たちはレントの時を過ごしてきました。散らされた姿で復活祭を迎えました。今、聖霊降臨祭に向かおうとしている時、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と主は言われます。そのことが実現し、神によって新たにされた者として、神によって集められた者として、再び礼拝堂において礼拝を捧げられることを私たちは求めたいと思うのです。そして、教会が本当の意味で回復された姿を見ることを共に祈り求めたいと思うのです。
(祈り)

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