2020年1月19日日曜日

「主よ、お話しください」

1サムエル3:1‐10

主よ、お話しください
 私が子供の頃に通っていた教会がまだ古い小さな会堂であった頃、会堂の両隅に二枚の絵がかけられていました。右にあったのは、イエス様がゲッセマネの園で祈っている絵。左にあったのは、巻き毛のかわいらしい男の子が正座をして手を合わせて祈っている絵でした。後にレイノルズの「幼きサムエル」という絵であることを知りました。今日の聖書箇所に出て来た少年サムエルの絵です。主が「サムエルよ」と呼び掛けると、サムエルは言いました。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。私が子供の頃に使っていた口語訳聖書では「しもべは聞きます。お話しください」という言葉となっていました。子供の頃に暗唱した聖句の一つです。礼拝堂の絵とセットになって今でも心の中に残っています。

 「どうぞお話しください。僕は聞いております」。「しもべは聞きます。お話しください」。そのように「お話しください」と祈ることのできる神様。私たちが信じているのはそのような神様です。私たちが語りかけるだけでなく、私たちに語りかけてくださる神様です。それゆえに、私たちの信仰生活においては、「聞く」ということが極めて重要な要素となっています。信仰生活とは神の言葉を聞きながら生きていくことです。

 私たちが主の日に集まる時に聖書が朗読されるのは、神の言葉を聞くためです。聖書朗読の時間に他のことを考えていてはなりません。私たちは心の耳を澄ませて神様の語りかけに集中して聞かなくてはなりません。また聖書朗読の後に説教が語られるのも同じ理由です。礼拝説教は聖書の説き明かしです。解き明かしがなされるのは、神の言葉を聞くためです。皆さんは「牧師のお話」を聞くために集まっているのではありません。私たちが信じる神様は、語りかけてくださる神様です。ならばこのサムエルの祈りは私たちの祈りでもあります。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。

 しかし、今日お読みした聖書箇所は、「どうぞお話しください。僕は聞いております」という祈りから始まるのではありません。次のような言葉から始まるのです。「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(1節)。

 サムエルは幼い日にシロにあった聖所にあずけられ、聖所に仕える祭司エリのもとで育てられました。さぞや宗教的に恵まれた環境で信仰を育まれたかと思いきや、実際にはそうでなかったことが前の章において次のように書かれています。

 「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。この祭司たちは、人々に対して次のように行った。だれかがいけにえをささげていると、その肉を煮ている間に、祭司の下働きが三つまたの肉刺しを手にやって来て、釜や鍋であれ、鉢や皿であれ、そこに突き入れた。肉刺しが突き上げたものはすべて、祭司のものとした。彼らは、シロに詣でるイスラエルの人々すべてに対して、このように行った。そればかりでなく、人々が供え物の脂肪を燃やして煙にする前に、祭司の下働きがやって来て、いけにえをささげる人に言った。『祭司様のために焼く肉をよこしなさい。祭司は煮た肉は受け取らない。生でなければならない。』『いつものように脂肪をすっかり燃やして煙になってから、あなたの思いどおりに取ってください』と言っても、下働きは、『今、よこしなさい。さもなければ力ずくで取る』と答えるのであった。この下働きたちの罪は主に対する甚だ大きな罪であった。この人々が主への供え物を軽んじたからである」(2:12‐17)。

 「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた」とは、このような人々と一緒に聖所で仕えていたということなのです。しかも、「主に仕えていた」と書かれているのですが、もう一方において7節では「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」と書かれています。ですから「主に仕えていた」と書かれているのは単純に聖所で仕事をしていたという意味なのです。実際に行っていたのは祭司の下働きとして日々繰り返されるルーチンワークです。そして、恐らく年老いて目がかすんで見えなくなっていた祭司エリの生活のお世話をしながら、毎日を送っていたのです。

 さて、先ほど「幼きサムエル」の絵のことに触れましたが、実際には幼子ではなかっただろうと思います。歴史家ヨセフスによれば既に12歳を越えていたとされています。当時においては立派な青年です。堕落した祭司たちが仕切っている祭壇に人々が形式的に犠牲を捧げに来る。それがシロの聖所の日常でした。そのような祭儀に仕えることが、若いサムエルにとって喜びと興奮に満ちた仕事であったとは思えません。

 しかし、日々の平凡な仕事の繰り返しにおいて、そして老人エリに仕えることにおいて、彼は大切なことを学んでいたのです。それは何か。忠実に仕えることです。忠実に聞き従うことです。今日お読みした場面には同じ出来事が三回繰り返されています。主がサムエルを呼ばれます。サムエルは「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言うのです。サムエルの答えは三回とも原文において一字一句違わず同じです。ここに愚直なまでのサムエルの従順、そして忠実さが表現されているのです。それがサムエルの日常だったのです。しかし、そのように日々忠実に仕える中で彼は準備されていたのです。そのようにして初めて主の言葉がサムエルに臨んだのです。

 四度目に主から呼ばれた時、サムエルはこう言っています。「どうぞお話しください。僕は聞いております」(10節)。これはエリから教わった言葉でした。サムエルはエリに言われたとおり、主に答えたのです。しかし、これまで忠実さと従順とを学び続けてきたサムエルにとって、この言葉は単なる教わった言葉のオウム返しではなかったに違いありません。本当に聞くつもりで、そして忠実に従うつもりで、サムエルは「主よ、お話しください」と言っていたに違いないのです。

 先ほど、「私たちの信仰生活において『聞く』ということは重要な要素である」とお話ししました。そして、「どうぞお話しください。僕は聞いております」という祈りは私たちの祈りでもあると申しました。それは確かにそうなのです。しかし、同時に「どうぞお話しください」と祈る私たち自身がその祈りに向けて備えられなくてはならないことも事実です。「どうぞお話しください」と祈る私たちとして、まず忠実さと従順とを学ばねばならないのでしょう。この世の事柄において忠実であり得ない者が、神の言葉に従うことにおいて忠実であるということはあり得ないでしょうから。

 そして、サムエルに見るように、そのような学びの場は、毎日の身近なところにあるのです。それはおよそ信仰とは関係のないように見える日々のルーチンワークかもしれません。ある東方教会の教師は次のように書いています。「修道院にいる修道士のほうが家庭にいるあなたがたより、従順になる練習をする機会が多いというわけではないのである。あなたがたは仕事の中でも隣近所のつきあいの中にでも同じようにその機会を見つけるであろう」。

それを話されたのは主だ
 さて、「どうぞお話しください」と祈るサムエルに主が語られました。続く話は、神の言葉を聞くということについて、さらにもう一つの大事なことを私たちに伝えています。

 サムエルに語りかけられた主は、サムエルを預言者として立て、主の言葉を伝えることにおいて最初の務めを与えられました。なんとその最初の務めは、祭司エリの家に対する裁きを告げることだったのです。サムエルは次のようにエリに告げることを求められたのでした。

 「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない」(3:11‐14)。

 15節には「サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた」とあります。それは無理ありません。彼はどんなにか苦しんだことでしょう。しかし、この与えられた務めにおいてこそ、サムエルは主の言葉に対する忠実さと従順とを問われたのです。彼が預言者として召されたのならば、人の望む言葉ではなく、主の告げられる言葉を語らねばなりません。サムエルはエリに聞いたことを残らず語りました。

 エリはすべてを聞いてこう語ります。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」(18節)。サムエルに「主よ、お話しください。僕は聞いております」と祈ることを教えた祭司エリは、自らもそのように主の言葉を聞いたということでしょう。語られた言葉は、祭司エリの罪を明らかにする厳しい裁きの言葉でした。しかし、そこに語られている自分の罪を認め、その裁きの言葉を裁きの言葉として受け止めること、それがエリにとっては主の言葉を聞くということだったのです。エリは確かに神の言葉を聞いたのです。

 このサムエルとエリとのやりとりは、この書物が記された時代の人々にとって、大きな意味を持ったに違いありません。というのも、国家の滅亡とバビロン捕囚を経験したイスラエルの民は、いったいいかなる言葉を聞いて受け入れるのかを問われていたからです。ある人々は神の名によって、救いと解放の時がすぐにでも訪れることを語っていました。「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く」(エレミヤ28:11)。それは多くの人々が聞きたがっていた言葉でした。しかし、それに対して預言者エレミヤは、速やかな救いを告げる預言者たちの言葉に反対し、国家の滅亡を神の裁きとして受け止めるようにと語ったのです。今こそ自分たちの罪を認めて、立ち帰らなくてはならない、と。サムエル記を含むこの聖書の歴史物語は、エレミヤのような預言者の言葉の延長上にあるのです。

 私たちが自分の聞きたい言葉、耳に心地良い言葉を尋ね求めている限り、私たちの祈りは本当の意味で「主よ、お話しください。僕は聞いております」とはならないでしょう。神は神であり私たちは人間です。神は神として私たちに語られます。私たちは神の御前にある罪深い人間として神の言葉を聞くのです。それゆえに神の言葉は時として、私たちの現実を照らし出し、私たちの罪を明らかにする厳しい言葉として臨むこともあるのでしょう。しかし、それは必要なことなのです。なぜなら、神の恵みの言葉は、裁きの言葉とは別のところにあるのではなく、その向こうにあるからです。私たちが願う言葉ではなく、神の言葉を求めてこそ、真の慰めと救いの言葉をも聞くことができるのです。

(祈り)

以前の記事