ハガイ書 2:1‐9
神殿の再建
今日の第一朗読ではハガイ書が読まれました。紀元前六世紀にごく短い期間活動したハガイという預言者を通して語られた主の言葉です。御言葉が与えられた日付がそれぞれ明記されています。今日読まれた主の言葉については、「ダレイオス王の第二年、七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ」と書かれています。ペルシアの王ダレイオスの治世の第二年と言いますと、今日の暦では紀元前520年に当たります。それはエルサレムにおいて神殿の再建工事が再開した年でした。
神殿の「再建工事」と言いましたのは、神殿が破壊されてしまったからです。遡ること約70年前、神殿が建っていたエルサレムはバビロニア軍に包囲されていました。軍事力においては圧倒的な差があります。約二年間持ちこたえましたが、ついに都は陥落しました。城壁は破壊され、神殿は焼き払われてしまいました。そして、主だった人々は皆、バビロンへと捕らえ移されることとなりました。「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。
それから約50年の月日が流れました。バビロニアに代わってペルシア帝国が支配する時代となりました。支配者となったペルシアの王キュロスは、帝国内の被占領民族に対して極めて寛容な政策を採りました。それぞれの民族が独自の文化と宗教を保持することを許容したのです。捕囚となっていたイスラエルの民に対しても、エルサレムに帰還し神殿を再建することを許可しました。「キュロスの勅令」などと呼ばれます。詳しくは旧約聖書のエズラ記に記されています。こうして捕囚の時代は終わりを告げました。
とはいえ既に50年も経っているわけですから、エルサレムから捕らえ移された人よりも、バビロンで生まれた人々の方が圧倒的に多いのです。異国の地においても、それなりに成功を収め、財産や地位を築いてきた人々も少なくありませんでした。当然のことながら、皆が皆エルサレムに帰りたがったわけではありません。そのような中で、あえて全く生活基盤のないエルサレムに帰還しようとした人たちは、よほど意識の高い人たちです。神殿の再建、さらにはエルサレムの再建の理想に燃えた人たちだったのでしょう。
しかし、現実は極めて厳しいものでした。彼らが目の当たりにしたのは、荒れ果てた土地であり、廃墟となった都でした。それでもなお、彼らは神殿の再建に取りかかろうとしました。しかし、そこに周辺民族からの妨害が起こりました。経済的な困窮もありました。結局、神殿の再建計画は頓挫してしまいました。こうして18年の月日が流れていきました。その間もエルサレムに帰還する人は増えていきました。ユダの総督ゼルバベルに率いられて、より多くの人々がエルサレムに帰ってきました。しかし、荒れ果てた神殿は放置されたままでした。皆自分の生活を守るので精一杯だったのです。
しかし、ダレイオス王の第2年の6月1日に預言者ハガイが口を開き、そのような帰還民たちに主の言葉を語り始めたのです。ハガイ書1章にこう記されています。「今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。今、万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」(1:4‐5)。
その後、11節までを一気に読んでみてください。まったく説明が不要なほどにハガイのメッセージは明瞭です。優先順位が間違っているということです。神様を後回しにして自分の生活を一生懸命に守っているつもりでいるけれど、それは本当の意味で守っていることにならないのだ、ということです。今、立ち止まって、本気で自分が歩んできた道を省み、人間の目に賢いと見えることが実はいかに愚かなことであるかを悟り、これから歩むべき道をしっかりと心に留めることが、どうしても必要だということです。
ハガイの預言の言葉によって、彼らは目を覚ましました。そうだ!何のために帰ってきたのか。神殿を再建するためだったのではないか。神殿のある都を再建するためだったのではないか。かつて先祖たちがしていたように、この都で礼拝を捧げるためだったのではないか。彼らは神殿再建へと再び立ち上がりました。ダレイオス王の第2年のことでした。
ここにお前たちと結んだ契約がある
しかし、神殿を再建するために立ち上がったものの、実際には資金も資材も限られていました。彼らにできることはたかが知れています。規模から言っても、たいしたものは建ちはしないでしょう。その現実が重くのしかかってきます。しかも帰還民の中の高齢者たちはかつてソロモンが建てた壮大な神殿を知っているのです。その装飾品の華やかさ、捧げられていた犠牲の多さ、仕えていた祭司たちの多さ、まさに周辺諸国の来訪者が目をみはったその規模の大きさを知っているのです。どうしても比較して、言いたくもなるでしょう。「みすぼらしいなあ。小さいなあ。」若い人たちだって、自分が実際に見ていなくても分かっているのです。見栄えのしないものしか建ちはしない、と。
自分たちが必死になって努力して成し遂げようとしていることが、現実には他の人からたいしたものとは見なされないとしたら、しかも自分自身もまた(苦労ばかりは大きいけれど、成し遂げられることはたいしたことないなあ)と思わざるを得ないとしたら、どうでしょう。気持ちが削がれるではありませんか。やる気が失せてくるでしょう。
ですから、主は再び彼らに語られたのです。それが今日お読みしましたハガイの言葉なのです。「お前たち、残った者のうち、誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか」(3節)。主は彼らの心の内にあるものをご存じです。「目に映るのは無に等しいものではないか」と、そう思っているのでしょう?主はそう言っておられるのです。神様は分かっておられる。分かった上で、あえて主は彼らに語られるのです。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる」(4節)。
「勇気を出せ」「働け」という言葉が、どうして意味を持つのか。それはひとえに「わたしはお前たちと共にいる」という約束によるのです。苦労ばかりが多いその再建事業のただ中に、神様が共にいてくださるのです。そもそも、神殿を再建しているのでしょう。ならば、一番大事なことは、神様が共にいてくださるということなのでしょう。
しかし、神殿の再建において、主が「わたしはお前たちと共にいる」と言ってくださるということは何を意味するのか。そのことを彼らは理解しなくてはならかったし、ここにいる私たちもよく考える必要があろうかと思います。主は「わたしはお前たちと共にいる」と言われた後、こう続けるのです。「ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない」(5節)。
「エジプトを出たとき」と語られていますが、正確には「エジプトから救い出されたとき」ということです。もともと彼らはエジプトにおける奴隷の民だったわけですから。そのような彼らが救い出されて、神と共に生きる民とされたのです。それが「わたしがお前たちと結んだ契約」ということです。
しかし、私たちが旧約聖書に見るように、イスラエルの歴史は神に対する背きの歴史だったのです。神は預言者たちを遣わして、立ち帰るようにと呼びかけ続けました。しかし、イスラエルの民は立ち帰らなかった。最終的にエルサレムが破壊され、神殿が焼き払われるに至りました。御自分が礼拝されていた神殿が破壊されて焼き払われることを神は良しとされたのです。それが背き続けてきたイスラエルの民に対する神の答えだったのです。
その神様が神殿再建をお許しくださり、しかも「わたしはお前たちと共にいる」と言われるのです。「ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある」。本当ならばあるはずがないのです。イスラエルが一方的に破ったのですから。しかし、それはまだ主の手元にありました。そして、主は言われるのです。「わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない」。そこにあるのは神の限りない赦しと憐れみです。神殿を建てさせていただくのは神の憐れみなのです。どんなにみすぼらしく見えようが、再建された神殿は、神の赦しと憐れみの目に見えるしるしに他ならないのです。
生ける神の神殿
それから約550年の月日が流れました。エルサレムには大きな立派な神殿が威容を誇っていました。ヘロデ大王が何十年もかけて大拡張工事を行ってきた神殿でした。人々は神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していました。本日の福音書が伝えているのはそのような場面です。そこでイエス様はこう言われました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(ルカ21:6)。つまり全部崩れてしまうことになると言われたのです。石が二つ積み重なっていることもないほどに、と。そして、実際そのとおりになるのです。紀元70年、ユダヤ戦争において、ローマ軍の手によって神殿は破壊されてしまうのです。
礼拝の場所が破壊されることを、神自らが良しとされる。かつてバビロニア軍によって神殿が破壊された時と同じように、その出来事はある意味では、神の答えであったと言えます。神に背いたユダヤの民に対する答え。いや、さらに言うならば、神に背いたこの世界全体に対する神の答えだったのです。イエス様にはその答えが見えていたのです。
しかし、それが最終的な答えでないことも知っておられたのでしょう。なぜならイエス様は、破壊されてしまうエルサレムの神殿ではない、まことの神殿を建てるために来られた御方ですから。イエス・キリストを隅の親石として建て上げられる新しい神殿。石や木で造られたのではない、人間で造られた神殿です。すなわちキリストの教会です。今日の第2朗読でパウロはこのように言っていましたでしょう。「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(2コリント6:16)と。ペトロもこう言っています。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(1ペトロ2:5)。私たちはその神殿をキリストと共に建てているのです。
しかし、人間で造られた神殿ということで、私たちがその材料であるとするならば、やはりあのハガイの時代の人々と同じ思いになるかもしれません。「みすぼらしいなあ。見栄えしないなあ。労苦ばかり多くて、たいしたものはできないなあ」と。しかし、主は今日の私たちにも語っていてくださるのです。「勇気を出しなさい。働きなさい。わたしはお前たちと共にいる。ここにキリストの血によってわたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている」と。人の目にどのように映ろうとも、これはキリストを通して現された、神の限りない赦しと憐れみの目に見えるしるしなのです。そして、神の赦しと憐れみがここにあるならば、神の救いもまたここにあるのです。私たちはそのような生ける神の神殿です。
(祈り)