マタイによる福音書 4:1-1
去る水曜日からレント(受難節)に入りました。受難節はイースターまでの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入りまして今日は最初の日曜日に当たります。レントの最初の日曜日には、世界中の多くの教会において「荒野の誘惑」の聖書箇所が読まれます。日本キリスト教団の聖書日課を用いている私たちの教会では、今年はマタイよる福音書の該当箇所が読まれました。
誘惑と試練
さて、そもそも「誘惑」とは何なのでしょう。今日の箇所で誘惑の主体となっているのは「悪魔」です。しかし、1節には「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」と書かれていました。つまり誘惑をするのは悪魔なのですが、神があえてそこに導いたということです。そうしますと、これは単に「誘惑」という言葉では表し得ない内容を持っていることが分かります。実際、「誘惑を受ける」と訳されている言葉は、「試される」とも訳せる言葉です。それは「試練」という言葉とも関係します。悪魔を主体として見る時に、それは誘惑となりますが、神を主体として見る時にそれは人間が試されることであり、人間にとっては試練となるのです。
そうしますと、ここに書かれていることは、さらに遡って荒れ野を旅したイスラエルの民の姿と重なってまいります。「四十日」という言葉も、イスラエルが荒れ野を旅した四十年の期間を想起させます。彼らを荒れ野に導いたのは神でした。何のためでしょうか。
今日の箇所においてイエス様がいくつかの聖書の言葉を引用しておられますが、最初の引用は次のような御言葉でした。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。これは申命記8章3節からの引用です。イエス様が念頭に置いていたのは、やはり荒れ野を旅したイスラエルでした。イエス様が引用された御言葉の直前には、こう書かれています。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8:2)。
何のために荒れ野に導かれたのか。何のための試練なのか。内にあるものが外に現れるためだと言うのです。「主は、あなたの心にあること・・・を知ろうとされた」。実際、荒れ野へと導かれて、心の内に潜んでいたものが激しく外に現れることになりました。神に救われて意気揚々とエジプトを脱出したイスラエルの民だったはずです。神によって海の中に開かれた道を喜びと賛美に溢れて渡って行ったイスラエルの民だったはずです。しかし、荒れ野へと導かれた時に、彼らの内にあるものが激しく現れることになりました。不平として、不満として。不信仰から出るもろもろの言葉として。
「主は、あなたの心にあること・・・を知ろうとされた」とありますが、考えてみれば、試練など与えなくても神は人の心の内にあるものなどいくらでも知ることはできるはずです。内にあるものが外に現れることが必要なのは、神にとってというよりも人間にとってであるに違いありません。確かに神に知られていることが人の目から見ても明らかにされる。そうあってこそ悔い改めもまた起こるからです。
それはかつてのイスラエルにとってそうであったように、後の教会にとっても、私たちにとっても同じであると言えます。内側にあるものが現れて、神に知られていることが明らかになる。そのための試練です。そして、私たちに先立って、教会の原型であるキリストが、荒れ野に導かれて誘惑を受けられ、試練を受けておられるというのが、今日の聖書箇所です。そして、試練は同時に誘惑でもあるわけですが、その誘惑を退けて悪魔に打ち勝っている姿を私たちはそこに見ているのです。
主を試してはならない
さて、マタイによる福音書は、イエス様が受けられた三つの誘惑を伝えています。今日はこの中で、特に第一朗読との関連で、イエス様が受けられた二つ目の誘惑に注目したいと思います。次のように書かれていました。
「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてある。』イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある』と言われた」(5~7節)。
ここにおいて悪魔は聖書を引用して語ります。「聖書にはこう書かれているでしょう」と、まるで敬虔なクリスチャンのようです。悪魔の誘惑が必ずしも「悪魔らしく」やって来るとは限りません。否、往々にしてそこに誘惑があると人はなかなか気づかないものです。試練の中にある時、そこにまた誘惑があると気づかない。神から引き離そうとする者の誘いがあることに気づかないものです。
では、敬虔な信仰者を装った悪魔の言葉の中に、いかなる誘惑があったのでしょうか。それはイエス様がどのように悪魔の言葉を退けたか、ということから理解することができます。イエス様はこう答えられたのです。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)。イエス様が引用されたのは、申命記6章16節の一部です。その全体はこのような言葉になっています。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16)。
「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」――これがイエス様の引用した元の言葉です。イスラエルがマサにいたとき、いったい何をしたのでしょう。どのようにして「主を試した」というのでしょう。実はそのことを伝えているのが、本日の第一朗読の箇所なのです。本日読まれたのは、次のような話でした。
彼らはレフィディムというところに宿営していました。「そこには民の飲み水がなかった」(出17:1)と書かれています。飲み水が尽きてしまったというわけではありません。水の蓄えなしで旅することはありませんから。そこでは水の補給ができなかったということです。次第に水が乏しくなっていきます。飲みたいのを我慢しなくてはなりません。先のことが不安にもなります。そこで彼らは不平を言い出しました。せっかくエジプトから解放されたのに、彼らは不平を言い出すのです。彼らはモーセに言いました。「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」(出17:3)。そして、彼らはモーセを石で打ち殺そうとしたというのです。なんと馬鹿げた話でしょうか。
しかし、神はそこでモーセに、一つの岩を杖で打つように指示したのです。モーセがその通りにすると、岩から水が流れ出て、民は飲むことができたと記されています。神の恵みと憐れみが目に見える形で現されました。しかし、聖書はこの出来事の起こった場所について、それを「神の恵みが現れた場所」であるとは説明していないのです。こう書かれています。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(同7節)。
信頼と従順が問われている私たち
聖書は言います。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」。考えてみてください。あの時、イスラエルが荒れ野にいたあの時、次第に水が乏しくなって行った時、試されていたのは人間の方だったはずでしょう。本当はそこで神への信頼と従順が問われていたのでしょう。そこでなおも神に信頼し、神に従って生きるのか。人間にとって最も重要なことが問われていたのです。
実際、その直前の17章には、荒れ野で食べ物がなかった時に、神が天からマナという食べ物を降らせてくださったことが書かれているのです。既にエジプトから救い出されたところから、常に神の恵みが先にあるのです。彼らは既に恵みの神を知っていたはずなのです。その神に、どのような状況においても、何があったとしても、そこで神に信頼し神に従って生きるのか。そのことが問われていたのは、人間の側であったはずなのです。
しかし、人間は神から問われる側にいることを良しとしないのです。神に問われるよりは、神を問う側にまわろうとするのです。試される側ではなく、試す側に立とうとするのです。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と。そして、人間が試す側、テストする側に立って、「神が我々の間におられるのなら確かなしるしを見せよ」と要求するのです。「神が愛しておられるなら確かなしるしを見せよ」と。我々が渇いているのだから水を与えよ、と。そのようにして、人間が神を試す側に立って、テストする側に立って、マルをつけバツを付けるのです。そして、水を与えようとしない神にバツを付ける。その具体的な表現は、神が立てたモーセを石で打って殺そうとするということでした。
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」神とその御言葉への究極の信頼を求める言葉に聞こえなくもありません。しかし、そこにかつてイスラエルが陥った誘惑があることをキリストは知っていたのです。そして、これを書いているマタイは、同じ誘惑に後の信仰者もまた常にさらされていることを知っていたのでしょう。
さて、この誘惑の舞台となったのは「聖なる都」すなわちエルサレムであったと聖書は伝えています。もちろん、イエス様は荒れ野にいるのですから、「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き」と言いましても、実際に連れていったわけではないでしょう。すべては悪魔の見せた幻影です。しかし、そこが「聖なる都」エルサレムであったということは重要です。そこがキリストと悪魔との最後の対決の場となるからです。
イエス様がエルサレムにおいて裁きを受け、ゴルゴタの丘において十字架につけられた時、人々はこう言ってイエスをののしりました。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(マタイ27:43節)。そうです、悪魔が同じ誘惑を再びここに持ってきていることが分かります。
しかし、荒れ野において「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言って悪魔を退けられた主は、最後まで悪魔の誘惑を退けられ、悪魔の誘惑に打ち勝たれたのでした。主の最後の言葉を、ルカによる福音書は次のように伝えています。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。