2024年2月7日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 8:1~28

 出エジプト記 8:1-28

 先週読んだといころを振り返ってみましょう。主の言葉をいただいたモーセとアロンは、再びファラオの前に立つこととなりました。そこでモーセとアロンが行ったのは、アロンが杖を投げるとそれが蛇になるという奇跡でした。そこで、ファラオは魔術師に同じことをさせます。超自然的なことは神でなくても起こせます。信じたくない人は「神でなくても同じことは起こる」と言って別の説明を試みれば信じないでいられます。これがファラオの示した抵抗の仕方でした。

 同じことは、「血の災い」においても起こりました。エジプトの魔術師が秘術を用いて同じことをするのです。ファラオは信じようとはしません。しかし、信じようと信じまいと、主が事を成されるならば、それは「しるし」なのです。「このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る」と主は言われます。主がどのような御方であるかを示すしるしなのです。

 「血の災い」に続く第2の災いは、「あなたの領土全体に蛙の災いを引き起こす」というものでした。それについては、「ナイル川に蛙が群がり、あなたの王宮を襲い、寝室に侵入し、寝台に上り、更に家臣や民の家にまで侵入し、かまど、こね鉢にも入り込む。蛙はあなたも民もすべての家臣をも襲うであろう」(7:28-29)と語られています。

 これは極めて宗教的なしるしでした。蛙は多産のため、古代エジプトにおいては豊穣多産の象徴として神聖なものとされていたのです。神話においてはケヘトという多産を司る蛙の顔をした女神として登場します。しかし、その神聖なる蛙が主なる神に従ってエジプトでいわば反乱を起こすのです。蛙もまた主の支配下にあることが明らかにされるのです。すなわちこれはファラオも主に従うことを求めるしるしとなるのです。

 さて、血の災いと同じように、奇跡は必ずしも信仰を生じさせません。ファラオは結局信じないのです。しかし、主が同じところに留まっているわけではありません。ここで確かに主がファラオに対して事を進めておられるのが見えてまいります。

 まずは、前回と同じように、魔術師が同じことをするのです。当然のことながら、これはファラオの命令によってなされたと考えてよいでしょう。先に申しましたように、第一の抵抗の仕方は、「主でなくても同じことは起こる」と示すことでした。実際に、災いが起こっても、「これは神の警告であり、悔い改めを求めているのだ」と思いたくないならば、人は懸命に、これが神によるものであると否定しようとするのでしょう。

 実際、魔術師は同じ奇跡を起こすことができました。しかし、同じように蛙を出せたとしても、蛙問題の何の解決にもなりまません。蛙が満ちて困っている時に、さらに魔術で蛙を出させても本当は何の意味もないのです。滑稽ではありませんか。ここに書かれているのは、主に対する人間の抵抗が、いかに滑稽なものであるかを示す風刺でもあるのです。

 ファラオは魔術師に蛙を出させても、何も解決にならないことに気付きます。実際、蛙が寝室まで入ってきたのではたまりません。やむにやまれず、ファラオはモーセを呼び出します。そこで注目すべき言葉は、「主に祈願して、蛙がわたしとわたしの民のもとから退くようにしてもらいたい」という言葉です。5章2節では、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と言っていたことを思い起こしてください。これは大きな進展であると言えます。

 実際、血の災いの時には、まだ主を認めてはいません。魔術師が同じことができたからです。しかし、この災いにおいて、ファラオは「主」を認めることになります。そこでいよいよ、この主に従うかどうかという本質的な問題に入っていくのです。本当の意味で戦いが始まったと言ってよいでしょう。

 ファラオは一見すると、主の前にへりくだって服従の姿勢を取っているように見えなくもありません。「祈願してくれ。民を去らせ、主に犠牲をささげさせるから」と。しかし、まだファラオは災いを逃れることしか考えてはいません。主に従うことは考えていないのです。それゆえにこれはまさに笑い話になるのです。

 モーセが「あなたのお望みの時を言ってください」(5節)と言います。すると、ファラオは「明日」と答えるのです。寝室にまで蛙が入り込んでいるのです。ある意味で彼は、一晩は蛙と一緒に寝るつもりでいるのです。これが人間の抵抗の姿です。今日いっぱいは頑張るつもりでいるのです。まだ主に頼らないで逃れる道を探すつもりでいるのです。それで無理なら、明日はお願いします、ということになるのです。

 そこでモーセは言います。「あなたの言われるとおりにしましょう(直訳は「あなたのお言葉どおりに」)」。意味合いとしては、「明日までに他の方法で解決などつきません。結局、あなたは我々の神、主のような神がほかにいないことを知るようになります」とモーセは言うのです。

 モーセは、ファラオの望みどおりに主に訴えます。そして、蛙は死にました。しかし、「ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また二人の言うことを聞き入れなくなった」(11節)と書かれています。もともと、祈願を願ったこと自体は、へりくだりとも従順とも関係はなかったからです。災いから逃れることしか考えていなかったわけですから。ならば災いがなくなったら従う必要はありません。当然の結果です。ファラオは心を頑迷にしました。しかし、これは主が無力だからではありません。モーセのせいでもありません。「主が仰せになったとおり」と聖書は語ります。

 続く第3の災いは、「杖を差し伸べて土の塵を打ち、ぶよにさせてエジプト全土に及ぼせ」(12節)というものでした。この「ぶよ(キンニーム)」が何を意味するのかは、実はよくわかりません。ぶよ、蚊、しらみ などの訳があります。いずれにしても、人間にとって不快なものです。

 ここでもまた主の御業が前進しているのを見ることになります。「魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった」と書かれています。そして、魔術師はファラオに、「これは神の指の働きでございます」と言うのです。まず、魔術師が主の御手を認識し、勝てないことを認めるのです。しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかったのでした。

 続く第4の災いは、「わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう」(16-17節)というものです。この「あぶ(アーローブ)」も何を指すのかはわかりません。あぶ、はえ、カブトムシなどの訳があります。いずれにせよ、虫の大群です。

 ここでも主の御業はさらに進んでいきます。主はここまでも「わたしの民」という言葉を繰り返し用いてこられました。イスラエルはあくまでも「わたしの民」だと主張してきたのです。イスラエルはエジプトに属さない。ファラオの民ではないのです。だから主が「去らせよ」と言ったら、ファラオは去らせなくてはならないのです。主のものだから。これは実はイスラエル自身も理解していなくてはならないことでした。ただ、主はただ苦しみから解放しようとしているのではないのです。「わたしの民」としてエジプトを去らせようとしているのです。

 そのことを主は示し始めます。「わたしの民」をファラオの民から区別すると言うのです。「神の民」は神に属するのであって、世にあっても世に属さない。それはイエス様も言っておられることでした。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」(ヨハネ17:16)と。その意味において、「主の民はエジプトに属さない」ことを示した、この第4の災いはその意味でわたしたちにとっても重要です。

 いかし、実際にはエジプトに留めようとする誘惑は働きます。「あなたはこの世に属する者ですよ。この世の言うとおりにしなくてはならないのですよ」という誘惑は働くのです。今日の箇所もそうです。ファラオは言うのです。「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」と。これに対して、モーセは「神が命じられたようにしなくてはならない」と言い返します。すると、ファラオは、「荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってはならない」と言うのです。実際に、こういう誘惑を、今日のキリスト者も経験するのではないでしょうか。あまり熱心にならないように。あまりこの世と違うことしないように。そうです、あまり遠くに行かないように、と。

 ファラオは主に従うつもりはないのです。神の民を手放すつもりもありません。だから、あぶがいなくなると民を去らせませんでした。この世は神の民を手放そうとはしないのです。この世の力、サタンの力は私たちを手放そうとしないのです。そこには戦いがあります。それはなかなか進まないように見えますが、主の戦いは最終的な勝利に向かって、確実に前進しているのです。


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