2024年2月14日水曜日

灰の水曜日礼拝説教 マタイによる福音書 6:1~15

マタイによる福音書 6:1‐15

既に報いを受けてしまっている
 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」。そのようにイエス様は言われます。ここでイエス様は「善行」と言っていますが、具体的には、ユダヤ人の間において重んじられていた代表的な「善行」が三つありました。それは「施し」と「祈り」と「断食」です。イエス様は6章の前半において、この三つを順に取り上げています。

 まずは施しについて。「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(2節)。また「祈り」についても主は言われました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」。そして、今日の朗読には入っていませんが、16節においてイエス様は「断食」についてもこう言っておられます。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする」。

 そのように、イエス様は代表的な「善行」を取り上げて、「偽善者のようにするな」と言われるのです。しかし、この「偽善者」という言葉には注意が必要です。日本語で「偽善」と言いますと、それは「偽りの善」と書きます。それゆえに、イエス様は「偽り」を問題としているのだ、考えてしまいやすいのです。「善行には偽りがあってはならない。善行は純粋なものでなくてはならない。誉められたいという不純な動機で行ってはならない。むしろ隠れて行うぐらいでないといけない。」そのような戒めであると思ってしまうのです。

 ところが、ここで「偽善者」と訳されている言葉は、もともとは「役者」を意味する言葉なのであって、それ自体には、「偽り」とか「不純」という意味合いはないのです。

 イエス様はここで、善行が偽りであることや、善行の動機が不純であることを問題にしているのではないのです。そうではなくて、「既に報いを受けてしまっている」ということを問題にしているのです。「彼らは既に報いを受けている」という言葉が繰り返されていますでしょう。どんな「報い」ですか。「人からほめられようと」と書かれていましたように、それは「人々からの称賛」という報いです。彼らは「人々からの称賛」という人間からの報いを一杯受けてしまっている。そのことを問題にしているのです。

 なぜこれが問題なのでしょう。それは、人々からの報いで一杯になっていると、もはや神から報いを受ける余地がなくなってしまうからです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と書かれているとおりです。それはただ神が報いを与えないというだけでなく、人間が神からの報いを求めなくなるということでもあるのでしょう。人からの誉れ、人からの称賛で一杯になって満足しているならば、もはやその人は神からの誉れ、神からの報いを求めることはなくなるからです。

隠れたところにおける父との関係は?
 しかし、それにしてもイエス様の言葉は実に過激です。徹底的です。突き詰めて言えば、人からの称賛という報いは、ただ周りの人々から来るのではないのです。3節を御覧ください。主は言われるのです。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」。「右の手のすることを左の手に知らせるな」とは、言い換えるならば、「自分自身にさえ見せるな、知らせるな」ということです。ただ周りの人々に見せないだけではないのです。

 分かりますでしょう。称賛という報いを与えてくれるのは、必ずしも周りにいる人々だけではないのです。自分自身もまたその一人なのです。考えてみてください。私たちが誰も知らないところで、人目に付かないところで善いことをしたとします。その行為者である自分を自分自身が見ているのです。そして、見ている自分がひたすら行為者である自分を称賛しているかもしれません。「みんな知らないかもしれないけれど、私はこれもしてきましたよ。あのこともしてきましたよ。みんなは知らないけれど、隠れて善いことをしている私は偉い!人の知れないところでこんなことをしている私は、なんて偉いんだろう!」――と、まあ、ここまで露骨な言葉が意識に上るとは限りませんが、実際、自分を見ている人々の一人に自分自身が含まれているのは事実でしょう。左手に知らせたら、右の手のすることは、左の手が称賛するのです。むしろこちらの方が満足は大きいかもしれません。しかし、これもまた人からの報いです。

 繰り返します。イエス様が問題としているのは、単に善行が偽りであるかどうか、ということではないのです。善い行いは隠れたところでしましょうという勧めでもありません。私たちが本当に考えなくてはならないことは、もっともっと奥にあるのです。もっと深いところにあるのです。そう隠れたところにある。その隠れたところに、一人の御方がおられるのです。隠れたところにおられる方は、隠れたことを見ておられる天の父なのです。イエス様がそう言っていますでしょう。その隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる天の父、その御方とどのように関わって生きているのか。――そのような私たちの人生の最も深いところが問われているのです。

 イエス様はここで特に「施し」「祈り」「断食」の三つを取り上げていますが、「祈り」が真ん中におかれていることは偶然ではありません。特に、この「祈り」については他の二つよりも多くの事が語られていますでしょう。私たちが礼拝において口にする「主の祈り」もまた、ここに記されています。そして、この「主の祈り」こそ、山上の説教全体の中心であるとも言われているのです。

 隠れたところにおられ、隠れたことを見ておられる天の父とどのように関わり、どのように共に生きているのか。それはすなわち、隠れたところにおいて、どのような祈りをもって生きているのか、ということです。最も深いところ、奥まったところ、隠れたところにおいて、神をまことに「天にまします我らの父よ」と呼んで生きているのか。そのように天の父と向き合い、父との生きた交わりの中にあるのか。その父からの報いをこそ求めているのか。父からの報いをこそこの上ない喜びとしているのか。――いや、考えて見れば、神を父と呼べること自体が本当は大きな報いなのでしょう。もっとも深いところで、奥まったところで、隠れたところにおいて、神との実に親密な交わりがある、神との間に親子としての交わりがある。本当はそれ以上の報いなど、あるはずはないのでしょう。

 しかし、実際にはそれが分からないままに、最も奥深いところ、隠れたところにおける父との関わりをいい加減にしたままで、私たちの信仰生活も教会形成も、とかく表面的なことに終止しているかもしれません。「まあ、日曜日には教会に行っていますよ。礼拝にも毎週出席していますよ」。でも、実際の毎日の生活では、目に見えること、地上のこと、人間から受けるもので頭がいっぱいになっているかもしれません。あの人がこう言った、この人がああ言った。わたしは受け入れられている。わたしは拒否された。わたしは認めてもらえた。わたしは認めてもらえてない。わたしは理解してもらえた。理解してもらえてない。――と、いつの間にか人間からの報いというこの世の報いの周りを、グルグル巡っているかもしれません。

 人の目から隠れた最も深いところには何もない薄っぺらな信仰生活、人からの報いばかり追い求め、人からの報いで満足している薄っぺらな人生。――そのようなもので終わらないためにも、このレントにおいて私たちの最も深いところに光を当てていただかなくてはならないのでしょう。奥まったところにおける生活はどうなっているのか。隠れたところにおける父との関係はどうなっているのか。そのことをこそまず見直さなくてはならないのです。今日からレントに入ります。この期間を経て、主の恵みにより、あるべき姿へと立ち帰らせていただきましょう。

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