マタイによる福音書 28:1‐10
キリストの「おはよう」
「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(9節)と書かれています。実は、この「おはよう」は、以前の口語訳聖書では「平安あれ」と訳されていました。しかし、もとのギリシア語はごく普通のあいさつの言葉です。朝ならば、まさにごく普通の「おはよう」です。
イエス様が現れて「おはよう」と言われたこの場面――キリストの復活については、四つの福音書がそれぞれの仕方でいくつもの場面を伝えておりますが、その中でも特に好きな箇所の一つです。
考えてみてください。この婦人たちは少し前まで絶望のどん底にいたのです。イエス様が死んでしまった。彼らの希望は永遠に失われてしまった。もう生きていけないとも思ったでしょう。しかし、そのような彼女たちが驚くべき出来事に遭遇するわけです。主の天使からキリストの復活を告げられました。そして、その彼女たちが走って行った行く手にイエス様が立っていました。天使から告げられたことを現実に目にしているのです。まさに彼らにとっては天地がひっくり返るような出来事です。
しかし、当のイエス様はいつものように、ごく普通の日常の言葉をかけられるのです。「おはよう」と。いくらなんでも、ここで「おはよう」はないだろうと思います。繰り返しますが、彼女はつい先ほどまで絶望のどん底にいたのです。その絶望を覆す出来事なんですから、ここは何か特別な宗教的な深淵な言葉が語られてもよい場面だろうと思うのです。しかし、そうではありませんでした。「おはよう」ですって。どうですか、皆さん。
実はもう一つ私の好きな場面がありまして、それは今日の箇所ではないのですが、ルカによる福音書に出てきます。復活されたイエス様が弟子たちに現れるのです。その時のことがこう書かれているのです。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」(ルカ24:41-43)。
弟子たちはこの直前まで絶望のどん底にいたのです。その絶望を覆す出来事がここで起こっているわけです。ならば、ここは何か特別な言葉が語られるか、あるいは特別な行為が期待される場面だと思うのです。しかし、そこでイエス様はいつものように、これまで幾度となく繰り返されてきたように、当たり前のように焼き魚をむしゃむしゃ食べるのです。復活のキリストの顕現というこの上ない宗教的な厳粛な場面で、焼き魚食べるのはいかがなものかと思うのです。
しかし、先にも言いましたように、私は聖書が伝えるこれらの場面が大好きです。改めてイースターの喜びとはこういうものだな、と思うからです。イースターの喜びは、「キリストの復活とは何ぞや」という難しい議論の上に成り立っているのではないのでしょう。日常の言葉をもって伝えられる、単純素朴なものであるはずです。
私たちが今日耳にしているのは、子供向けのおとぎ話や寝物語の類ではありません。そうではなく、非常に厳しい現実の中で読まれ、そして聞かれ、伝えられた物語だということを忘れてはならないのです。教会の外からは迫害がありました。生まれて間もない教会の内にはいつも混乱がありました。キリスト者の毎日の生活には、それこそ数えきれないほどの重荷があり労苦があったに違いない。そのような中で、これらの物語は伝えられてきたのです。単純素朴に、日常の言葉で、復活の主の現れが伝えられてきたのです。
困難な状況の中で、それこそ命がけで主の復活を伝えてきた人々の声が聞こえるような気がします。「辛いことはある。悲しみもあるけれど、今はただ一緒に主の御復活を喜ぼうじゃないか。単純に復活されたイエス様が一緒にいてくださることを喜ぼうじゃないか」と。そのように、今日一緒に礼拝している私たちにも呼び掛けられているのでしょう。去年のイースターには礼拝堂にいたのは私一人でした。いまだに皆が集まって礼拝することができない私たちです。そのような教会生活において、牧師としても信徒としても、ある意味では、自分の弱さ、罪深さ、エゴイズム、そして不信仰と向き合わざるを得なかった一年間でした。そして、今もなおその継続の中に置かれている私たちです。しかし、そのような私たちにも、こうしてイースターが与えられているのです。そして、このような現実のただ中で呼びかけられているのです。「一緒に主の御復活を喜ぼうじゃないか。復活されたイエス様が一緒にいてくださることを喜ぼうじゃないか」と。
新しい始まりを告げる者に
先にも申しましたように、婦人たちが登場するこの場面はもともと深い絶望と悲しみから始まります。こう書かれていました。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(1節)。そのように、彼女たちは「墓を見に行った」と書かれています。実際には墓を見に行ったわけではありません。他の福音書を読むと分かります。彼らは香料と油を塗って御遺体の処置をするために行ったのです。しかし、今日お読みした箇所では、単純に「墓を見に行った」と書かれているのです。
その二日前、イエス様が葬られたその日にも、墓を見つめる二人の姿がそこにありました。聖書にはこう書かれています。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」(59‐61節)。
葬りを終えてヨセフが立ち去った後も、ずっとそこに座ったまま墓を見つめ、墓の入り口をふさぐ大きな石を見つめて動こうとしない彼女たちの姿がそこにありました。その思いは、ある意味で痛いほど分かります。彼女たちが墓を見つめていたのは、そこにイエス様が葬られたからです。それはイエス様の最終的に行き着いた場所だったからです。
イエス様が鞭打たれて血まみれになっていたとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様が十字架の上で苦しみの極みにあったとき、彼女たちは何もすることができませんでした。イエス様から多くの多くの愛を受けてきました。けれど何一つお返しできませんでした。何もしてあげられませんでした。そして、彼女たちが見つめる中で、イエス様は息を引き取られました。
イエス様の遺体は取り下ろされ、墓に葬られました。終わりました。すべては終わったのです。あの日二人はイエス様が葬られた墓を見つめて座っていました。すべては終わったという事実を見つめて座っていました。そして、三日目の朝、二人は再びその同じ場所に向かいました。彼女たちは「墓を見に行った」。そこに物語の終わりがあるから。終わったという事実があるから。
しかし、そこで彼女たちは全く異なるものを見ることになったのです。彼女たちはこのような言葉を聞きました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。どうしてか。どうしても見なくてはならないものがあったからです。そこにイエスはおられない、という事実です。
主の御使いは彼女たちにこう言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5‐6節)。
二人が「終わり」としての墓の中に見たのは、「終わり」ではなく、「始まり」でした。「終わり」である墓の中にキリストはおられませんでした。キリストは既に墓から歩み出しておられました。キリストは既に先に進んでおられました。神によって新しいことが既に始まっていました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。神が見せてくださったのは、新しい「始まり」でした。
いや、あの婦人たちは新しい始まりを見せていただいただけでなく、それを伝える人になりました。神の使いは彼女たちにこう言ったのです。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」(7節)。
彼女たちは恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去ります。すると、行く手に立っていたのは、墓から既に歩みだしておられたイエス様でした。そして、主は言われるのです、「おはよう」と。そして、主御自身が同じ言葉を語ってくださいました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。
こうして、彼女たちは伝える人になりました。終わりではないことを伝える人になりました。キリストはよみがえられた。神は終わりを始まりに変えてしまわれた。もうキリストは先に進んでおられる。先に進んで待っていてくださる。だから弟子たちもまた、そこに立ち止まっていてはいけないのです。「もう終わりだ」と思っているところに立ち止まっていてはいけないのです。絶望の暗闇に座り込んでいてはいけないのです。後悔と自責の暗闇に座り込んでいてはいけないのです。彼らもまたそこから歩み出さなくてはならない。なぜなら、キリストが先に進んで行って、待っていてくださるから。神によって既に新しいことが始まっているからです。キリストが復活されたということ、そして復活されたキリストがお会い下さり、共にいてくださるとはそういうことなのでしょう。
今日、私たちにもこうしてイースターが与えられています。今日、私たちにもキリストの復活が伝えられています。主の復活を共に喜ぼうと私たちにも呼び掛けられています。墓から歩み出された復活の主が共におられるならば、私たちは決して終わりにはいません。今日私たちは新たな信仰生活の始まりにいるのです。
(祈り)