マタイ4:18-25
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4:10)。かつてガリラヤ湖畔において主がペトロとアンデレに語られた言葉です。そして、この物語が教会において朗読されるたびに、代々の教会が自分たちへの語りかけとして聞いてきた言葉です。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。主は今日ここに集まっている私たちにも、そう呼びかけておられます。
わたしについて来なさい
「わたしについて来なさい」。主はペトロとアンデレに言いました。その時、ペトロとアンデレは湖で網を打っていました。彼らは漁師でした。その彼らに「わたしについて来なさい」と主は言われた。彼らは「すぐに網を捨てて従った」。そう書かれています。主はそこから進んで、別の二人の兄弟、ヤコブとヨハネを御覧になりました。彼らは父と一緒に、舟の中で網の手入れをしていました。イエス様は彼らをお呼びになりました。彼らにも「わたしについて来なさい」と言われたのでしょう。「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。そう書かれています。そのように、「わたしについて来なさい」という言葉と共に、今日の箇所において語られているのは「イエスに従った」人々の姿です。彼らはついて行ったのです。
今日の福音書朗読はさらに25節までをお読みしました。イエス様が「ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(23節)という話です。かなり広い範囲から大勢の群衆がイエス様のもとに集まって来ました。恐らくイエスの癒しの奇跡を聞きつけて人々は集まって来たのでしょう。しかしこの部分にしても、ただ群衆がイエスのもとに来たとだけ書かれているのではありません。「大勢の群衆が来てイエスに《従った》」と書かれているのです。先ほどのペトロやアンデレたちについて書かれていたのと同じ言葉です。
この箇所を読む限り、この「大勢の群衆」の大部分は病気の人かあるいは病気の人を連れて来た人です。病気の人も病気の人を連れて来た人もそれぞれ苦しみを負っていたのでしょう。もちろん、イエス様はその苦しみを見て心を動かされたに違いない。しかし、明らかにイエス様が関心をもって目を向けておられたのは彼らの背負っている苦しみだけではありませんでした。苦しみにしか目を向けていなければ、病気が癒されて苦しみが取り除かれた時に、イエス様が関心を向けていたものも無くなるわけです。イエス様とその人を繋げていたものも無くなるではありませんか。
しかし、そうではないのです。イエス様は病気を見ておられるのではなく、人間を見ておられるのです。病気の人であろうが連れてきた人であろうが、イエス様は人間に目を向けておられるのです。だから苦しみが取り除かれた後にも「従う」という関係は残るのです。あるいは苦しみがたとえそこで取り除かれなかったとしても、「従う」という関係は存在し得るのです。「大勢の群衆が来てイエスに従った」。既に癒された人もまだ癒されていない人も。
そのように、イエス様が開始された宣教の働きにおいて、イエス様は人間に目を向けられ、人間を求められた。そこには元気な漁師たちもいたし、ただ病気を癒して欲しいという一心だった人たちもいた。しかし、マタイによる福音書はそこに「イエスに従う人々」を見ているのです。そして、イエス様は彼らを見て山に登られる。人々はその後についていく。そこでイエス様は山上の説教を語られるという流れになっているのです。いわばそこに教会の原型を見ているのです。そして、その延長上に私たちもまたいるのです。主は御自身がガリラヤにおいて開始された宣教の働きを、お一人で進めてはいかれないのです。主は人間を求められます。従う人々を求められます。そして、主に従う人間を用いて宣教の働きは進められるのです。
人間をとる漁師
そこで注目したいのは、主がペトロとアンデレに言われた言葉です。主は「わたしについて来なさい」と言われ、さらにこう続けられました。「人間をとる漁師にしよう」。この言葉にもよく現れています。人間を用いた宣教の働きにおいて、イエスの関心はどこまでも「人間」に向けられているのです。
ユダヤ人たちがローマ帝国の支配下にあった時代です。ローマ人の支配が打ち倒されて、イスラエルの王国が建て直されることを多くの人々が待ち望んでいた時代です。人々のメシア待望とは、まさにそのような社会体制の変革を実現してくれる力ある王の到来を待ち望むものでした。もう一方において武力をもって異邦人の支配に対抗しようとする人々がいました。武力によって体制の変革を実現しようとする人々がいました。熱心党と呼ばれていた集団です。イエス様が歩いておられたガリラヤは、そのような熱心党運動の発祥の地であり拠点でした。後にイエス様の弟子となる人たちの中にも、熱心党出身者がいたことが知られています。「熱心党のシモン」(10:4)と呼ばれた男です。
しかし、イエス様御自身は熱心党運動に全く関心を示しませんでした。イエス様が数々の奇跡を行った時、人々はやがてこの人がその驚くべき力をもってローマ帝国を揺り動かすだろうと期待を膨らませたに違いありません。事実、ヨハネによる福音書には、人々がイエス様を王にしようとする動きがあったことを伝えています。しかし、イエス様はそのような人々の動きをむしろ遠ざけられました。イエス様がその気になりさえすれば、恐らく大きな政治的権力や影響力を獲得することはいとも容易いことだったに違いありません。しかし、そのために御自分の力を用いようとはなさいませんでした。
イエス様の心が向けられていたのは、いつでも一人ひとりの人間でした。それは時として誰も目に留めないような一人の貧しいやもめであったり、社会の構成員とは見なされなかった重い皮膚病の人であったり、軽蔑の対象でしかなかった徴税人であったり、そして、ごく当たり前の日常を来る日も来る日も変わることなく送っている漁師たちでした。イエス様が関心を向けておられたのは、そのような一人一人の人間でした。その人間が神に立ち帰ること、まことの父である神に立ち帰ること、そして一人一人の人間が神の救いにあずかり、神との交わりに生き、神をほめたたえて生きる者となることを求められたのです。それはいわば、人間を神のもとに獲得すること、神のもとにすなどることに他なりません。ただそれだけを求められたのです。
それゆえに、御自分に従ってくるペトロやアンデレたちを、神のもとに《人間を》すなどる漁師にすると言われたのです。彼らは世界を覆す必要はなかったのです。彼らは世界を救う英雄になる必要はなかったのです。彼らはただ目の前の一人一人の人間を追い求めていればよかったのです。それが彼らに託されたことだったのです。そして、それがここにいる私たちにも求められていることなのです。
教会はただ漠然とこの世に向き合うのではありません。教会はあくまでも人間と向き合い、個々の人間と関わり続けます。教会は十把一絡げの伝道はしません。ホースで水を撒くような仕方で洗礼を授けることはしません。それぞれ固有の名前を持ち、固有の人生を歩んできた固有の人格と関わり、一人が神に立ち帰ることを求めます。そして、神の救いにあずかる一人のゆえに喜ぶのです。それが教会です。
わたしがしてあげよう
そのように、主は「人間をとる漁師にしよう」と言われたのでした。「わたしが人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたのであって、「あなたは人間をとる漁師になりなさい」と言われたのではありません。
それにしても、「人間をとる漁師にしよう」というのは何度聞いても不思議な言葉です。不思議な自信に満ちた言葉です。その時にペトロがどれほどの能力を持っていたか、どれほどの可能性を持っていたかなど関係がないかのようです。いや、実際そんなことはどうでもよかったのでしょう。イエス様はペトロの資質や能力ではなく、ペトロという一人の人間を求められたのだし、そのペトロが従ったという事実だけが重要だったのです。
実際、そのペトロはイエス様に従う歩みにおいて様々な失敗をしでかします。弱さを露呈することになります。しかし、それでもペトロは従っていけばそれで良かったのです。それでイエス様には十分でした。イエス様はその言葉のとおり、ペトロは人間をとる漁師になりました。また、同じように、イエス様が十字架につけられた後、ユダヤ人を恐れて家の中に隠れていたあの小さな群れを、イエス様は人間をとる漁師とすることができました。
そして、後の教会もまた同じです。確かに教会の歴史を見る限り、そこには人間的な弱さや過ちが絶えることがありませんでした。しかし、それでもなおイエス様は「わたしについて来なさい」と語り続け、その呼び声に従った人々によって、教会は人間をとる漁師であり続けたのです。
また、今日の箇所において、ペトロやアンデレと同じように「従った」と語られている「大勢の群衆」の多くが病気であったり、病気の人を連れて来た人であったことをもう一度思い起こしてください。先に申しましたように、病気が癒される前であっても後であっても、イエス様がそこに見ていたのは「病人」ではなく、一人一人の「人間」だったのです。そのように、私たちもまた様々な弱さをかかえながらここにいるのかもしれないけれど、それでもなお主は一人一人の人間として私たちを招いてくださっているのです。主は私たちにも言われます。「わたしについて来なさい」。
今、私たちは毎週礼拝に集まることができるわけではありません。教会生活の在り方は昨年春から大きく変わってしまいました。しかし、だからこそ私たちに改めてこの御言葉が与えられているのでしょう。「わたしについて来なさい」と主は言われます。その招きの声に、私たちは具体的にどのようにお応えしたらよいのでしょうか。「人間をとる漁師にしよう」と言われる主の御言葉は、私たちにおいてどのように実現していくのでしょうか。
(祈り)