2020年7月12日日曜日

「イエス・キリストがいやしてくださる」

使徒言行録9:32‐43

異邦人伝道に向けて
 今日、私たちは9章の最後の部分をお読みしました。この9章の前半においては、ファリサイ派のユダヤ教徒であったサウロがキリストに出会い、キリスト者となった次第が書かれていました。彼は後にローマ帝国の至るところにおいて、特にユダヤ人以外の異邦人に、キリストを宣べ伝える偉大な伝道者パウロとなるのです。このパウロなくして後のキリスト教の歴史はありません。

 しかし、このパウロはキリスト者となった後、しばらくタルソスに逃れ、物語の表舞台から姿を消すことになります。次に彼が登場するのは11章なのです。時間的には数年後のことです。このように書かれています。「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った」(11:25‐26)。彼はタルソスでも宣教の働きを続けていたとは思われますが、「見つけ出して」と書かれているぐらいですから、本当に目立たない、隠れた働きであったに違いありません。彼が神によって大きく用いられるのは、バルナバによって連れ戻されて後の話です。

 人の目から見るならば、せっかく回心したサウロを、神様はどうして数年間も埋もれさせてしまったのか、と訝しく思います。しかし、それはあくまでも人の見方です。神様には神様の順序があるのです。パウロがタルソスにいる間、神様は何もしておられなかったのではありません。むしろ、パウロが異邦人伝道に用いられるため、さらには地の果てにまで福音が伝えられるために、神様は準備を進めておられたのです。

 その準備とは、異邦人伝道について、使徒たち、特にペトロの目を開くということでした。もともとペトロを始めとする使徒たちは、ユダヤ人以外、すなわち異邦人にキリストを宣べ伝えるつもりなど毛頭ありませんでした。あくまでも救いはユダヤ人のためのものだったのです。そのような使徒たち、特にペトロに対して、主は働きかけられるのです。

 主がどのようにしてペトロの目を開かれたかは、この後の10章に記されています。コルネリウスという百人隊長、またその仲間たちとペトロが出会うことになるのです。そして、異邦人である彼らが、ペトロを通してキリスト者となるのです。今日、お読みした聖書箇所は、その出来事への橋渡しとなっているのです。

イエス・キリストがいやしてくださる
 今日お読みした32節から35節には、中風患者のアイネアという人が癒されたことが記されていました。これと良く似た話がルカによる福音書5章に出てきます。中風の患者がイエス様のもとに連れて来られました。そして、その後、ファリサイ派の人々とのやりとりなどが記されていますが、最終的にイエス様はこの患者に次のように言われます。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」細かい描写は異なっていますが、ペトロも同じようにこの中風の患者に命じます。「起きなさい。自分で床を整えなさい。」8年も床に着いていた人に立ち上がることを要求するのです。すると「アイネアはすぐ起きあがった」と言うのです。

 続く36節以下には、タビタという婦人の弟子が生き返ったという話が記されています。そして、これに良く似た話がルカによる福音書8章に出てきます。イエス様が、ヤイロという会堂長の娘を生き返らせたという話です。

 ヤイロという人がイエス様のもとに来てひれ伏し、自分の家に来て下さるようにと願います。12歳ぐらいになる一人娘が死にかけていたのです。イエス様は弟子たちと共にその家に向かいました。しかし、娘はイエス様が着く前に死んでしまいました。しかし、イエス様は、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、そして娘の父母を連れて家に入ります。そして、娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられたのでした。この言葉はよほど印象的だったようで、他の福音書には、イエス様が話しておられたアラム語そのままで「タリタ、クム」と記されています。そして、イエス様がこう言われると、その少女はすぐ起き上がったのでした。

 今日お読みした物語は、明らかに福音書における「タリタ、クム」の話を思い出すように書かれています。ペトロはヤッファに近いリダにいたのですが、二人の使いによってタビタが亡くなったことを知らされ、使いの者と共にヤッファへと向かいます。彼が家に着くと、部屋から皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって言いました。「タビタ、起きなさい。」お分かりでしょう。これはアラム語ですと、「タビタ、クム」となるのです。キリストがなされた癒やしの御業とペトロによる癒やしの業が重なります。

 この2つの物語は、「真の行為者はだれであるのか」ということを明確に示しています。ここに書かれているのは、ペトロの行為であって、ペトロの行為ではない。キリストがペトロを通して働いておられるのだ、ということなのです。ですから、アイネアの物語では明確に「イエス・キリストがいやしてくださる」とペトロが宣言しているのです。「わたしがいやしてあげよう」ではないのです。

 先にも触れましたように、使徒言行録に記されている教会の歩みは異邦人伝道という新しい段階に入ろうとしています。ルカはそれを10章以降に書き記そうとしています。しかし、そのことを書き記すに当たって、重要なことを確認しているのです。異邦人伝道においても、真の行為者は誰であるか。――それはキリストである、ということです。

 他ならぬキリストが、ユダヤ人と異邦人を隔てる壁を越えて行こうとしておられるのです。ペトロはそのために用いられたに過ぎない。逆に言えば、本当に生きて働いておられるのは自分ではなくキリストなのだ、ということを知るからこそ、ペトロは壁を越えて進むことができたのです。

人々が主に立ち帰るために
 そして、さらにもう一つのことを心に留めたいと思います。この二つの奇跡物語はどちらも宣教との関わりにおいて締めくくられているということです。アイネアの物語については、「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」(35節)と書かれていますし、タビタの物語については、「このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」(42節)と書かれているのです。つまり、病気が癒されたり、死人が生き返ったりした出来事そのものによって、アイネアやタビタが救われたというのではなく、むしろ人々が主に立ち帰ったということの方に強調点が置かれているのです。

 病気の癒しや死人の蘇生という物語をどのように読むかは重要です。癒された人もやがては再び病気になったのでしょう。蘇生したドルカスも、やがては死んだのでしょう。癒しは救いそのものではありません。癒しは神の国のしるしなのです。この世における癒しは、来るべき世における完全な癒しを指し示しているのです。死人の生き返りは、来るべき世における復活を指し示しているのです。それは神が最終的に与えてくださる完全な救いを指し示しているのです。

 それゆえに、この世においても来るべき世においても、最も大切なことは、救ってくださる神と人との関係はどうであるか、ということなのです。人々は、アイネアの癒しにおいて、あるいはタビタの蘇生において、神の恵みの支配に触れたのです。だから人々は「主に立ち帰った」のです。神との関係が変わったのです。

 イエス様は、十字架にかかられ復活される以前にも、神の国のしるしを現し、神の恵みの支配を示し、神の国へと人々を招かれました。十字架にかかられて贖いを全うした後にも、復活されたキリストは、やはりペトロを通して同じことをなさっているのです。そして、キリストは現代の教会を通しても同じことをしておられるのです。そのように、神の国への招き、神の救いへの招きは、あくまでも主御自身のお働きなのです。

 今日、キリストが私たちを通して為そうとしておられることは、表に現れる形としては、必ずしもこのペトロの場合のように病人を癒すことではないかも知れません。むしろそうでない場合が多いでしょう。キリストが私たちを用いられる仕方は様々です。しかし、どのような形であれ、キリストが私たちを用いて御業をなされるならば、そこで神の国への招きが起こります。キリストが完全なる救いへと招いてくださいます。そして、神と人との関係が変わります。教会がキリストの体であり、私たちは皆、その一部であるとはそういうことです。

 私たちは今、主の日の礼拝をささげるためにここに集まっています。この時間は、キリストの体である教会が、目に見える姿で集められている特別な時間です。今、この場所に集まることができず、それぞれの家で祈りを合わせている人たちがいることを私たちは知っています。そして、今日集まっている私たちは、別の週には集まることができません。礼拝の人数制限によって、集められている時は、特別な時間であることをいよいよ思わされることとなりました。通常は散らされているのです。

 だからこそ、私たちが月の大部分の時間を過ごすことになるそれぞれ散らされている場所にあっても、私たちはキリストの体の一部なのだということを忘れてはならないのです。そして、私たちを通して働いておられる真の行為者はキリストなのだということを忘れてはならないのです。ペトロがアイネアと出会い、タビタと出会い、そしてその後、異邦人である百人隊長と出会うことになったように、私たちもまた、遣わされている場において、思いがけない仕方で出会うべき人々が備えられているかもしれません。主が、私たちを通してその人に出会い、主が御業を現され、人が主に立ち返るために。

(祈り)

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