2019年10月20日日曜日

「愛によって動くのか、恐れによって動かされるのか」

2019/10/20  ルカ19:11-27

遠い国に旅立つ主人
 今日の福音書朗読ではイエス様のたとえ話が読まれました。なぜイエス様がこの話をなさったのかについては、次のように説明されています。「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」(11節)。

 エルサレムへと向かうイエスの一行の後に多くの人々が従いました。なぜでしょう。ナザレのイエスにおいて現れる神の力を見たからです。人々は神の力を持つ偉大な王となるべき人物を見たのです。だから大群衆がその後に従ったのです。今日の箇所の直後にはエルサレム入城の様子が次のように記されています。「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光』」(37‐38節)。

 そのようにイエス様のエルサレム入城は、まさに力ある王の入城に他なりませんでした。さらに言うならば、エルサレムはかつてダビデの王座があった場所です。そこにイエス様が入られるということは、ダビデの子孫として待ち望まれてきたまことの王メシアが即位して、神の国が実現し、完全な救いの世界が出現することを意味したのです。

 そのような人々の期待がピークに達していた。今日お読みしたのは、そのような場面です。そこで人々はまさに「神の国はすぐにも現れるものと思っていた」のです。そんな人々に向かってイエス様が話されたのが、今日お読みしたたとえ話なのです。

 イエス様は次のように語り始められました。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」(12節)。ここで語られている「立派な家柄の人」というのは明らかにイエス様御自身を指しています。イエス様の言わんとしていることは明白です。要するに、「神の国はすぐにも現れる」などということはない、と言っているのです。自分がすぐにメシアとして王座にすわり、神の国を実現することはない、と。自分はむしろ「遠い国」に旅立つのだと言われるのです。エルサレムは自分が王位に就く場所ではない。むしろそこから「遠い国」に旅立つのだ、と。

 そう主が言われるとおり、エルサレムにおいてイエス様は王として即位し救いの世界を実現することはありませんでした。私たちの知っているとおりです。イエス様はエルサレムで王となるのではなく、十字架にかけられて死ぬのです。その十字架において、その死において私たちの罪の贖いを成し遂げられ、復活されたイエス様は天に帰られることになるのです。このルカによる福音書は、イエス様の昇天の場面で終わります。

 もちろん、このたとえ話にあるように、イエス様はやがて王として再び帰って来られます。これを教会は「キリストの再臨」と呼んできました。私たちも使徒信条において「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白しているとおり、キリストが王として再び帰って来られることを信じているのです。

 しかし、ここで主はあえて「遠い国に旅立つ」という話にしています。つまりそれは「すぐに帰って来ることはない」ということを意味します。確かに帰って来る時には、王位を受けて帰って来ることになります。しかし、それは遠い先になると主は言われるのです。実際、キリストが再び来られるという約束から既に約二千年経ちました。まだ戻っては来られません。神の国は現れていません。救いの世界は実現していません。

 これがこのたとえ話を聞いていた人々の立ち位置であり、今日これを読んでいる私たちの立ち位置でもあります。私たちはまだ神の国の到来を見ていません。しかし、やがて到来することは知らされています。ならば重要なのは待望しつつある「今」をどう生きるのかということです。それゆえイエス様もこのたとえ話において、主人の帰りがいつになるのかという話はなさいません。そうではなく、主人が旅に出ている間にどう生活すべきなのか、という話をなさるのです。すなわち、この世における信仰生活の仕方です。そこでイエス様は今日お読みした「ムナのたとえ」をなさったのです。

主人を待つ僕として生きる
 この「ムナのたとえ」に良く似た話をご存じでしょうか。マタイによる福音書に書かれている「タラントンのたとえ」です。ただ、この二つは確かに似ているのですが、それだけに違いもまた顕著です。例えば、タラントンという通貨の単位とムナという通貨の単位。「タラントンのたとえ」では、ある人は五タラントン、ある人は二タラントン、ある人は一タラントン受けています。一番少なく託された人でも一タラントン。一タラントンと言えば、だいたい今日の六千万円に相当すると思ってください。これに対して、今日の話に出て来る一ムナとは、その六十分の一に相当すると思っていただいたら良いでしょう。それを渡して「わたしが帰って来るまで、これで商売しなさい」(13節)と言うのです。

 そのように、託されている額が違う。桁が違うのです。今日の聖書箇所において語られているのは、明らかに託されている「小さな事」についての話です。10節にも「ごく小さな事」と語られているとおりです。先にも申しましたように、この話は私たちの信仰生活の話です。そこで私たちに託されている「ごく小さな事」がある。それをどうするのか、という話です。私たちの人生には確かに「大きな事」もあります。しかし、人生を構成する大部分は、日常の「ごく小さな事」です。そして、「ごく小さな事」に対する態度によって人生そのものが決まってくる。それもまた事実です。

 今日お読みした福音書には三人の場合が取り上げられています。明らかに重要なのは三人目です。まずそこから見ておきましょう。彼は主人が帰ってきた時、託されていた一ムナを差し出してこう言うのです。「御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」

 「恐ろしかったのです」と彼は言いました。そのように、彼を動かしていたのは「恐れ」でした。託された小さなこと。一ムナ。これについて何かをすれば、失敗をするかも知れません。主人に叱られるかも知れません。罰せられるかもしれません。ならば主人の機嫌を損ねるようなことはしないほうがよい。何もしないほうがよい。「布に包んでしまっておきました」というのは、要するに「何もしませんでした」ということです。何もしないのですから、失敗もありません。

 この言葉の背景として、当時のユダヤ人たちの姿を考えることもできるでしょう。ユダヤ人、特にファリサイ派の人たちは、律法に記されていることを生活の隅々にまで適用して生きようとしていました。それ自体は真面目な志です。しかし、それが「恐れ」によって支配されるとどうなりますか。一つ一つの小さな行動について、「もしかしたら神の律法に違反をしているかもしれない。神から罰せられるかもしれない」と恐れを抱くことになるのでしょう。

 例えば、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と律法にあります。では火をつけることはどうなのか。これは仕事になるかもしれない。律法違反になるかもしれない。ならば禁止しておいた方がよいでしょう。ということで、多くの禁令が定められました。最終的に安息日についてだけでも1521の禁止事項が定められるに至ったのです。

 確かに、それをしないことによって違反はしない。失敗はしない。しかし、そのようにして戦々恐々として、「とにかく背くような行動は何一つしませんでした」という人生、「一ムナは布に包んでしまっておきました」という人生を神は喜ばれるのでしょうか。あるいは律法違反の話に限らず、もっと広い意味で、とにかく落ち度なく、失敗なく、無難にやり過ごすだけの人生を、神は喜ばれるのでしょうか。

 いいえ、そうではないのです。イエス様はたとえ話をこう続けるのです。「主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう』」(22節)。「その言葉」というのは、「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」と言った僕の言葉です。つまりその言葉自体を主は問題にしているのです。

 確かに間違ったことはしなかったかもしれない。失敗はしなかったかもしれない。しかし、その言葉自体、その思い自体が間違いであり、失敗だということです。よくよく考えてみれば、彼が言っていることは、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言っていた人々と、少しも変わらないのです。

 信仰生活において重要なのは、間違ったことをしない、ということではないのです。「あれをしてはならない」「これをしてはならない」を守ることが信仰生活なのではないのです。もっと大事なことがあるのです。それを私たちは他の二人に見るのです。

 最初の者が進み出て言いました。「御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました」。明らかなことは、この男、主人のために何かをしたということです。「一ムナ」でできることは小さなことかもしれません。でも、とにかく主人のために、主人のことを思って何かをやったのです。「十ムナもうけました」はその結果に過ぎません。主人は何と言っているでしょう。「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」。主人は、「ごく小さな事に忠実だった」と言ったのです。そこを見ておられた。忠実であるとはどういうことでしょう。小さな事についても、主の僕として行ったということでしょう。すなわち、主人に喜んでいただくために、主人のことを思って行ったということでしょう。

 このイエス様のたとえ話を読みますと、イエス様に出会って変えられた、元ファリサイ派パウロのことを思い起こします。彼はコリントの人たちに次のように書いています。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(2コリント5:9)。生きても死んでも、とにかく主に喜ばれる者でありたい。それがパウロの最大の願いであり人生の意味だったのです。そして、コロサイの信徒たちにこう勧めます。「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように」(コロサイ1:10)。どう見ても彼はもはや「一ムナは布に包んでしまっておきました」という人ではありません。

 一ムナを用いる。それは小さな事です。私たちの人生はそのような小さな事の連続です。小さなことを、何を考えて行うのか。――そのことによって私たちの人生は決まってきます。一ムナを用いれば、もしかしたら一ムナを失うかもしれません。しかし、それでも良いのです。主の目から見るならば、恐れに捕らわれて「一ムナは布に包んでしまっておきました」と言うよりもずっと良いことなのです。

 どのような状況にあっても、私たちが主のために為し得る「小さな事」が必ずあるはずです。それを主に喜ばれることを考えて行っていく。それが今、この時を生きる信仰生活において重要なことなのです。

(祈り)

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