2019年10月6日日曜日

「小さな事に忠実でありなさい」

ルカ16:1-13 

風変わりなたとえ話
 今日読まれましたのは、イエス様の一風変わったたとえ話です。イエス様の語られたたとえ話そのものは8節前半までと見て良いでしょう。こんな話です。

 ある金持ちに一人の管理人がいました。管理人というのは、主人の財産と商売の一切を託され、取り仕切っている人です。信頼されてその務めを与えられているのです。しかし、その管理人が主人の信頼を裏切りました。財産の無駄遣いが発覚したのです。管理人は主人から責任を問われることとなりました。解雇は確実です。彼は危機に直面することになりました。ここで信用を失った者が、他で同じ仕事に就けることはまず考えられません。とはいえ肉体労働する力もない。物乞いをするのはプライドが許さない。困った彼はいろいろと考えたあげく、ついに名案を思いつきます。「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ!」

 早速彼は計画を実行に移します。主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に言いました。「わたしの主人にいくら借りがあるのか」。その人は油百バトスの借りがありました。百バトスとは約2300リットル。相当な量です。単なる個人的な借りというよりは、商売における取り引きの話でしょう。管理人は彼に言いました。「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。」なんと証文の額を半額にしてしまったのです。当然、減額された人は大喜びしたに違いありません。すかさず管理人は言っただろうと思います。「この恩を忘れるなよ」と。

 次の人にも彼は言いました。「あなたは、いくら借りがあるのか」。小麦百コロスの借金がありました。小麦約23,000リットル分です。管理人は彼にも言いました。「これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。」そして、彼にも言ったことでしょう。「この恩を忘れるなよ。」――このように、自分の立場を利用して、不正に不正を上塗りするようなことを管理人がしたという話です。

 今日の第一朗読では、アモスの預言が読まれました。「エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう」と悪い商売人たちが言うわけです。だれにも分からないと思っている。けれど神様は見ておられるのです。「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」と神様は言われるのです。このような聖書の言葉を聞いて育った人たちが、イエス様のこのたとえ話を聞いたなら、何を考えるのでしょう。この管理人の不正のようなことも神様は絶対に許されるはずがない、と当然そう思うでしょう。

 ですから、イエス様の話を聞いていた弟子たちは、物語の結末をある程度予想していたと思います。きっとこう続くに違いない。――「しかし見よ、この悪事は主人の知れるところとなった。この管理人は厳しい裁きを受けることとなった。人は蒔いたものを必ず刈り取ることになるのだ!」…と、イエス様が続けると思いきや、なんとイエス様はこう締めくくられたのです。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」。

 さて、この予想を裏切るような展開において、イエス様はいったい何を仰りたいのでしょう。続きを聞いてみましょう。

主人がほめた賢さ
 イエス様はこのように言われます。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」(8節後半)。聞く人にとっては、この管理人の「不正」が気になるわけですが、イエス様が取り上げておられるのは「賢さ」というテーマのようです。主人の言葉を思い起こしてください。主人は何もこの管理人の不正をほめたわけではありません。「抜け目のないやり方」――直訳すれば「賢く行ったこと」をほめたのです。

 彼の賢さとは何でしょう。それは、終わりに備えた、ということでした。解雇は確実でした。彼は管理人としての終わりに直面していました。しかし、彼はその終わりのことだけを考えてはいませんでした。終わりのことを思い煩って、そこに留まってはいませんでした。大事なのは「終わりの時」ではなく「今」だからです。今、与えられている選択肢は何なのか。今、どのような行動が可能なのか。具体的には、今、与えられているものをどのように用いることができるのか。彼はそのことを考えて、行動したのです。

 「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」。この点に関しては、信仰者よりも世の人の方が優っているではないかと主は言われます。実際、危機が訪れた時、破局が近づいた時、終わりが近づいた時、この不正な管理人が見せたような賢さは、この世においていくらでも見られるのでしょう。

 しかし、「終わりに」について言うならば、私たちこそ、本当は決定的な危機、決定的な「終わり」について主から聞かされているはずなのです。私たち自身の人生もいつか必ず終わりを迎えます。この世もまた必ず終わりを迎えます。そして、必ず神の御前に立つことになるのです。この管理人と同じように、「会計の報告」を出すことになる。私たち自身の人生が問われることになるのです。

 必ずすべての人に訪れる終わりに備えるならば、終わりのことだけを考えていてはなりません。終わりについて思い巡らして、そこに留まっていてはなりません。大事なのは「終わりの時」ではなく「今」なのです。今、与えられている選択肢はなんなのか。今、どのように行動することが可能なのか。今、与えられているものをどのように用いることができるのか。

不正にまみれた富で友達を作れ
 そこでイエス様は次のように話を続けられます。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)。――イエス様は、誰もが受け入れることができるようなお上品な表現を用いません。極めて大胆かつ過激な物言いで私たちに迫ります。

 「不正にまみれた富」。それは必ずしも「不正で得た富」という意味ではありません。「天の宝」に対する「この世の富」という意味合いです。この世の「お金」の話です。主は「お金で友達を作りなさい」と言われるのです。どう思われますか。イエス様、そんなこと言っていいのでしょうか、と言いたくなるかもしれません。

 しかし、「お金で作った友達なんて本当の友達ではない」――などと正論を言う前に、私たちは考えなくてはならないことがあると思うのです。私にしても、皆さんにしても、今こうして生きているのは、誰かがお金を使ってくれたからでしょう。今こうして誰かとの関わりに生きられるのも、誰かがわたしや皆さんのためにお金を使ってくれたからでしょう。

 ここに会堂が建っていて、誰かの信仰の友でいられるのも、誰かがお金を出してくれたからでしょう。今日は世界聖餐日ですが、「世界宣教の日」でもあります。そもそも、日本の教会が世界の教会にとって信仰の友でいられるのも、この国に宣教師を送ってくれた国々の人たちが、私たちのためにお金を使ってくれたからでしょう。私たちはそれぞれ誰かの愛によって支えられて生きているのです。それは抽象的なことではなくて、具体的にお金や時間や労力が費やされ、犠牲が払われることなのでしょう。そのように誰かによって友とされてきた私たちに対して、主は言われるのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と。

 そして、イエス様は言われるのです。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と。「永遠の住まいに迎え入れられる」と言う場合、その意味上の主語は第一には神様です。しかし、話の流れから言いまして、ここでは明らかに神様のことだけが考えられているのではありません。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」――その「友達」もまたそこにいるのです。誰が私たちを永遠の住まいに迎え入れてくれるでしょうか。それはすなわち、与えられているものを、誰のために用いてきたのでしょうか、ということでもあります。こうして見ると、「不正にまみれた富で友達を作れ」という言葉は極めて過激な表現ではありますが、今、この時に、富をどう使うかを考える上で、極めて重要なことを、イエス様は教えてくださっていることが分かります。

小事に忠実であれ
 そして、さらに主はこう言われます。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」(10‐12)。

 もちろんお金はあくまでもお金、この世に属するものであり、永遠の価値を持つものではありません。教会に託されているのは、神の国の福音であり、永遠の救いをもたらす神の御言葉です。信仰者が常に目を向けるべきは、この世の富ではなく、永遠なる神の国の豊かさです。私たちは上にあるものを求めるのです。その意味では、確かにお金に関わることは、所詮はこの世に属することであり、永遠なることに比べて、「小さいこと」とも言えるのでしょう。しかし、そこでイエス様は「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」と言われるのです。

 この世の富は、一時的に託されているものに過ぎません。管理人はあくまでも管理人に過ぎません。しかし、その託されているごく小さな事に忠実でなければ、大きなことを任せられるか、永遠なるものを任せられるか、と主は言われるのです。「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」と。

 そこでイエス様は最後にこのように締めくくられるのです。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(13節)。神に仕えるならば、富に「仕えて」はならないということです。富は「仕えるべきもの」ではなく、主人である神に託されたものとして「使うべきもの」です。その用い方において、私たちは小さなことに忠実であるかが問われます。その用い方において、終わりに向かう私たちの賢さが問われます。

(祈り)

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