2019年9月22日日曜日

「最後まで信仰を全うするために」

ルカ14:25‐35

最後まで信仰を全うするために
 「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)と書かれていました。イエス様がエルサレムに向かう旅の途中でのことです。大勢の群衆が一緒についてきたのは、この御方に特別な期待を抱いてのことでしょう。その理由の一つはイエス様がなさった数々の奇跡にあったことは間違いありません。この章の初めにもイエス様が水腫を患う人を癒された話がありました。前の章には、腰の曲がった人が癒された話が出て来ます。既にガリラヤにおいて、数多くの癒しを行っていたことは広く知れわたっていました。

 しかし、人々はそこにただ神の力を見ただけではありませんでした。人々はイエス様の御業に、神の慈しみを見たのです。だから次の章に見るように、病気の人たちだけでなく、徴税人や罪人たちもイエス様に近寄ってきたのです。この御方を通して、恵みの神はイスラエルに救いを実現しようとしている!その期待は、エルサレムに近づくにつれ、高まっていったことでしょう。19章にはこんなことが書かれています。「(イエスは)エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」(19:11)。

 神の国が現れる。神の救いによって神の王国が実現する。王座に座るのはもちろんイエス様です。多くの人々は、ローマ人の支配からの政治的な解放を期待していたのかもしれません。いずれにしても、何かが起こるとしたら、やはりエルサレムです。人々はこの御方に大きな期待を抱きつつ、エルサレムへの旅に一緒について来たのです。

 しかし、イエス様はこの旅の終わりを群衆と同じように見てはいませんでした。そもそもの旅の始まりを聖書は次のように伝えているのです。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9:51)。つまり、イエス様はこの世の命の終わりが近いことを思いつつ、エルサレムに向かっておられたのです。エルサレムで何が待っているのかをご存知でした。そこで御自分が苦難を受け、十字架につけられて殺されることになることを分かった上で、エルサレムに向かっておられたのです。

 いや、それだけではありません。主はその先を見据えておられました。御復活の後に弟子たちはこの世界に遣わされることになるでしょう。そのために既に主は弟子たちを遣わして訓練しておられたのです。彼らは十字架につけられたメシアを信じ、宣べ伝えることになるでしょう。ならばその弟子たちもまた苦難を受けることになるでしょう。弟子たちもまた、自分の十字架を背負って従うことになるのです。後のキリスト者がどのような道を辿ることになるのか、主は分かっておられたのです。実際、初期のキリスト者は約300年に渡り苦難の中を生き続けることとなるのです。

 もちろん、イエス様の旅について歩いている群衆は、そのようなことは知りません。バラ色の未来しか思い描いていないのです。それゆえに、主は振り向いて言われたのです。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(26‐27節)。

 主は「わたしの弟子ではありえない」と言われたのであって、「わたしの弟子にはなりえない」と言われたのではありません。ここで主が問題にしておられるのは、弟子であり続けることができるのかどうか、ということです。言い換えるならば、信仰を最後まで全うできるのかどうかという話です。弟子になるならば、最後まで弟子として全うするつもりでなくてはならない。それを語っているのが、続くイエス様のたとえ話です。

 ここで繰り返されているのは「まず腰をすえて」という言葉です。これは「座る」という言葉です。彼らは大いなる救いの期待に胸を膨らませ、熱狂、興奮しながらついて来たのでしょう。しかし、イエス様はいわば、「まず座れ」と言っておられるのです。彼らは座って良く考えなくてはなりません。

 最初のたとえ話は、塔を建てるならば、まずは座って落ち着いて考えて、最後まで建て上げるつもりで建て始めるだろうという話です。二つ目のたとえも同じです。進軍して来る敵があるならば、まずは座って落ち着いて考えて、迎え撃つならば最後まで戦って打ち勝つつもりで迎え撃つだろう、という話です。座って考えて、勝てそうにないならば、初めから戦争などしないだろう、と。

 そのように、イエス様のなさる奇跡を見て、神の国がすぐにでも現れる、救いの世界が実現すると期待して、熱狂して興奮してついていく人々に対して、「ついて来るなら、最後まで従うつもりでついて来い」と主は言っておられるのです。そして、最後までついて行くつもりであるならば、必要になるのがこのことなのです。

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」また、主はこうも言われるのです。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)。

一番大切なものは何?
 これは実に強烈な言葉であると言わざるを得ません。しかし、この「憎む」という言葉は、私たちが「憎む」と言うのとユダヤ人が「憎む」と言うのとでは、必ずしも意味合いが同じではありません。二つの物があって、その一つを選ぶとき、「一つを愛し、他方を憎む」という言い方をするのです。つまり「憎む」というのは必ずしも感情的に憎しみを抱くことではなく、「選ばない」ことをも意味するのです。つまり、これはどちらを取るのか、どちらを第一にするのか、という話なのです。

 もし「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹」を憎まない、すなわちそれらとの関係を第一とするならば、それらとの関係が失われるよりはキリストとの関係の方を捨てるのでしょう。ならば、その時、もはやキリストの弟子ではありえない。主が言われる通りです。いやそれだけでなく、「自分の命であろうとも」と主は言われます。この世の命が第一であるならば、その命が失われるよりはキリストの方を捨てるのでしょう。その時に「キリストの弟子ではありえない」。そのようなことは歴史においていくらでも起こってきたし、この国においても起こったことを私たちは知っています。

 33節に書かれていることも、基本的には同じことです。この場合は「自分の持ち物」の話ですが、それを最も大切なものとしない、執着しないということが「捨てる」という言葉で表現されているのです。自分の持ち物が最も大切であるならば、それを迫害によって失うよりはキリストの方を捨てるのでしょう。その時、キリストの弟子ではありえない。

 そのように、イエス様が言われていることは、迫害の時代ということを背景に考えるならば、当たり前のことを言っているに過ぎないとも言えます。しかし、そこで当然、今日の私たちはこの御言葉をどう聞くのかが問われるのでしょう。今日、同じことを語るなら、危険なカルトか宗教的な熱狂主義者と見なされるかもしれません。しかし、聖書にはこのようなことが確かに書かれているのです。イエス様はこのように語っておられるのです。ならば、私たちはやはり神の言葉として真剣に受けとめなくてはならないのだろうと思うのです。

 そもそもここで問題とされているのは、何を第一にするのか、ということです。イエス様との関係なのか、それとも他の関係なのか。このことについて、やはり私たちは自らを省みて考える必要があるのでしょう。

 考えてみれば、父との関係にせよ母との関係にせよ、その他の関係にせよ、私たちの意志とは関係なく失われ得る関係です。それらは私たちの手の内にはありません。そして、それらの関係が私たちにとって第一であり、「最も大切なもの」であるならば、それを失った時に、私たちは「最も大切なもの」を失ったことになるのです。その中で一番分かりやすいのは、「自分の命」との関係です。「自分の命」。この世の命。それが自分にとって一番大切なものであるならば、それを失うことは最も大切なものを失うことに他ならないのでしょう。

 星野富弘さんという詩人であり画家でもある方をご存じの方も多いことと思います。もともとは中学校の体育の先生でした。しかし、24歳の時にクラブ活動の指導中に模範演技に失敗して、首の骨を折ってしまった。彼は手足の自由を完全に失ってしまいました。その星野さんが、やがて入院中に絵を描くようになりました。口で絵筆をくわえて絵を描いた。そこに御自分の詩を添えられるようになりました。その星野富弘さんの書かれた詩の中にこのような詩があります。

「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが/苦しかった。いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」

 ある意味では、この世の命は、一日一日、失われていきます。単に寿命の話ではありません。この世の命は、様々な形で削り取られ失われていくのです。ある人は、病気によって命が削り取られていくのを経験するでしょう。ある人は、愛する人との別れによって。ある人は、挫折によって、夢を失って、「いのち」の大きな部分が削り取られる苦しみを味わいます。星野富弘さんは一瞬の出来事によって手足の自由を失ってしまった。それは自分の「いのち」の大きな部分が失われてしまった経験であったに違いありません。「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが/苦しかった」。それは星野さんの実感だったのだろうと思います。星野さんでなくても、この世における「いのち」は失われゆく命です。もしこの世の命が一番大切なものならば、その一番大切なものを失いながら生きていくのが私たちの人生となるのでしょう。

 しかし、星野さんは「いのちより大切なものがあると知った」と言うのです。星野さんにとって、それはイエス様との関係だったのです。それこそ御自分の命よりも私たちを大切に思い、十字架にかかってくださった、その御方との関係です。その御方が「ついて来なさい」と言ってくださいました。復活して永遠に生きておられる方がそう言ってくださった。もしこの御方を第一とするならば、私たちにとって最も大切な関係は永遠に失われることはないのです。それは、本当は何よりも幸いなことなのではありませんか。

 そしてさらに言うならば、イエス様との関係が第一となるならば、他のすべての関係の意味は変わるはずなのです。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら・・・」「自分の持ち物を一切捨てないならば・・・・」そのように「憎む」「捨てる」という言葉が用いられますと、それらの関係を粗末にすることのように感じられるかもしれません。しかし、そうではないのです。

 イエス様の弟子であるという関係が第一であるならば、例えば「父、母、妻、子供・・・」との関係にしても、それはイエスの弟子としての関わりになるのです。すなわち、それらの人々は、イエス様の弟子として、イエス様に遣わされた者として、愛し仕える隣人となるのです。そして、永遠なるイエス様が介在されることにより、それらの関係もまた永遠の意味を持つのです。

 そして、自分の命との関係、自分の持ち物との関係も変わります。イエス様との関係が第一であるならば、命についても持ち物についてもイエスの弟子としての関わりになります。すなわち、それ自体「愛すべきもの」なのではなくて、それらはイエス様の御心に従って「用いるべきもの」となるのです。命も、そして持ち物も。

 そのように、「憎む」という言葉が使われていながら、実は本当の意味で「父、母、妻、云々」すなわち、この世の関係を大切にする道がここにある。「捨てる」という言葉が使われていながら、実は本当の意味で持ち物を大切にする道がここにある。そのような関わりの中で、主は最後まで信仰を全うするつもりで従ってきなさいと私たちを招いておられるのです。

(祈り)

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